津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日1832年3月3日) - 明治38年(1905年6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士官僚陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。は芝山[1][2]

津田 出
生誕 1832年3月3日
紀伊国和歌山城
死没 (1905-06-02) 1905年6月2日(73歳没)
所属組織 紀州藩
大蔵省
大日本帝国陸軍
軍歴 1873年 - 1888年
最終階級 紀州藩戊営都督
陸軍少将
除隊後 元老院議官
貴族院議員
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弟は初代和歌山県知事正臣[3]

人物

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紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる[4]津田家河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。

蘭学徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される[2]

明治維新後に和歌山藩大参事となり、上京し陸奥宗光を通して郡県制、徴兵制の必要性を説き、岩倉ら維新政府首脳陣に深い感銘を与え、諸藩の手本として改革の実施を促される。明治新政府に先駆けて陸奥とともに藩政を改革して徴兵制・郡県制を施行、ドイツ人士官を招いて兵制改革を行うなど、テストケースとして明治4年の廃藩置県及び明治6年の徴兵令に影響を与えた[1][2][3]維新三傑に津田を加えて維新四傑と称されることもあったといわれ[2]、大久保利通は日記で「実に非凡な人物」と評価し、後に歴史作家司馬遼太郎も著書で「天才的な経綸家」と評している[5]

西郷隆盛の推挙を受け明治4年新政府に迎えられ大蔵少輔となるが、やや人望に欠けるところがあり、和歌山藩からの終身賞賜米を一時に授与されるよう願い出て受け取った件について和歌山県内で物議沸騰し、大蔵省へも訴えがあり、明治5年、大蔵省出仕を免ぜられ、閉門された。[1][2][6]。 当時留守政府の首班西郷は、初め井上馨を通じて津田を司法卿にする申し入れに同意していたが、後にそれが賞賜米を巡る物議を抑えようとする術策であったと激怒し、旧藩主への蔑視なども憎むべきこと、「これ程大功を立て候者は、御一新以来これなく候処、利欲に惑い、功名水泡と相成り候儀、残念の至りに御座候。」と大久保に書くなど、誹謗するに至る。

その後、陸軍大輔元老院議官貴族院議員などを歴任した[1]

年表

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栄典

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位階
勲章等

出典

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脚注

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  1. ^ a b c d 津田出(つだ いずる)とは”. コトバンク. 2020年7月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e 津田 出(ツダ イズル)とは”. コトバンク. 2020年7月19日閲覧。
  3. ^ a b 紀州藩士・津田出の資料、和歌山市に寄贈(写真付)”. WBS和歌山放送ニュース (2018年8月17日). 2020年7月19日閲覧。
  4. ^ 秦 2005, p. 102, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:津田出
  5. ^ 「天才的な経綸家」津田出紹介 和歌山市立博物館、今春発見の史料も展示”. 産経ニュース (2018年11月7日). 2020年7月19日閲覧。
  6. ^ 西郷隆盛 弱点はストレス・人事下手”. 日経BizGate (2018年2月7日). 2020年7月19日閲覧。
  7. ^ 「津田出」項、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年
  8. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  9. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  10. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  11. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  12. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  13. ^ a b 『官報』第6575号「叙任及辞令」1905年6月2日。
  14. ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。

参考文献

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関連項目

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公職
先代
西郷従道
  陸軍大輔
1874年
(西郷従道と共同)
次代
西郷従道
先代
伊藤博文
  大蔵少輔
1871年
次代
(欠員→)吉田清成