鮭延信道

日本の明治時代前期~昭和時代前期の外交官。旧加賀藩藩医鮭延良治養子。

鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年明治11年)10月22日[1] - 1954年昭和29年)10月27日[2])は、日本外交官。駐チリ公使

経歴

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東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった[1]。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。

1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した[1][3]。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した[1][3]

1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた[4][5]

栄典・授章・授賞

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脚注

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  1. ^ a b c d 人事興信録 第5版 1918.
  2. ^ 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年、343頁。
  3. ^ a b 人事興信録 第7版 1925.
  4. ^ 大衆人事録 1937.
  5. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』渋沢栄一記念財団
  6. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版』帝国秘密探偵社、1937年。