山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日[1] - 没年不明)は、明治大正日本外交官。元国際連盟委任統治委員。

人物

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青森県弘前市笹森町生まれ[2]。1896年青森県第一尋常中学校(現青森県立弘前高等学校)卒業[2]。1900年高等商業学校(現一橋大学本科卒業[3]。1902年同専攻部銀行科卒業[4]。同期に出淵勝次駐米大使鈴木榮作シドニー総領事、高嶋菊次郎中支那振興総裁、上田貞次郎帝国学士院会員など[5]

1903年在ホノルル領事館領事官補[6]。1906年在フランス大使館三等書記官[2]。1908年在アンヴェルス領事[7]。1912年臨時外務省事務従事、大臣官房電信課兼人事課臨時勤務(領事)[8]。1913年在ベルギー公使館二等書記官[9]

1914年駐ベルギ―臨時代理公使[10]。同年在スウェーデン公使館二等書記官[11]。1918年臨時外務省事務従事、大臣官房文書課長心得、官報報告主任、統計主任(公使館一等書記官)[12]平和条約実施委員・総領事も務め[13]、1921年から在ベルギー大使館参事官[14]。1923年依願退官[15]。1928年まで国際連盟委任統治委員会委員を務めた[16][17]

親族

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山中卯太郎養蚕業者で弘前市会議長も務めた。弘前藩家老を務めた山中逸郎は祖父[2]。妻の貞子は珍田捨巳外務次官の子[2]佐藤愛麿駐米大使は叔父。妹よしは丸瀬寅雄元臨時議院建築局理事の妻[2]

栄典

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脚注

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