魯元公主
魯元公主(ろげんこうしゅ、? - 紀元前187年)は、漢の高祖劉邦の長女。生母は呂雉。恵帝(劉盈)は同母弟にあたる。小説等では“魯元”を名前とされることが多いが、本来は、魯・元公主とされるのが正しく、「魯に化粧領を与えられた皇帝の長女」を意味する称号である。本名は不詳である。張耳の息子である張敖との間に張偃および恵帝の皇后張氏がいる。
魯元公主 | |
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続柄 | 高祖第一皇女 |
称号 | 魯元公主 |
身位 | 公主(王太后) |
配偶者 | 張敖 |
子女 |
張偃 張皇后 |
父親 | 高祖 |
母親 | 呂皇后 |
生涯
編集沛県に生まれ、父の劉邦が秦末の動乱に参加すると母の呂雉とともにその留守を守った。彭城の戦いに敗れた劉邦が項羽の放った追っ手から馬車で逃れる途中に沛県に立ち寄った際に、弟の劉盈とともに父と合流するも、追っ手に捕まるのを恐れた劉邦に、劉盈とともに何度か馬車から投げ落とされそうになるが、御者をしていた夏侯嬰によって救われている。
劉邦が皇帝となると、魯元公主は趙王張敖に降嫁するも、張敖は謀反の疑いで侯爵に格下げされた。さらに魯元公主自身も匈奴との和平の必要から冒頓単于に嫁がせようという話が出て、劉邦もそれに乗り気であったが、呂雉の奔走によりこれは沙汰止みとなった。
劉邦の没後、恵帝の生母として実権を握る呂雉の歓心を買わんとした異母兄の斉悼恵王劉肥から、その領土の一部の城陽郡を献上され、斉の王太后となった。
なお、紀元前180年に陳平や周勃と灌嬰らの元勲たちや劉邦の孫で斉悼恵王の遺児である斉哀王劉襄と朱虚侯劉章兄弟らによるクーデターが発生して、呂雉の血筋を引いている張偃も粛清されそうになったが、彼は劉邦の孫でもあったため爵位を廃されることで済んだ。その後、劉邦の四男の文帝が即位すると、張偃は爵位を回復することになった。
【呂氏系図】(編集)