呂公 (前漢)
呂公(りょこう、? - 紀元前203年(高祖4年)[1])は、中国秦末期 - 前漢初期の人。呂雉の実父。
『史記』高祖本紀によれば単父の人で、人の怨みを買ったことから、親しい沛県県令を頼って沛県へ移住していた。『史記索隠』所引『漢書旧儀』によれば汝南郡新蔡県(秦に淮陽郡に属す)の人である。呂公というのは通称であり、姓の呂しか分からないということであるが(同様の例に劉太公)、『索隠』所引『相経』は名を文、字を叔平とする。
得意の人相見で、劉邦を娘の呂雉の婿にしたエピソード(詳細)が知られている。『史記集解』によれば漢の元年(紀元前206年)に臨泗侯となり、高后元年(紀元前187年)に呂宣王と追諡したという。
郭沫若は呂公が呂不韋と同族であった可能性を指摘している。郭沫若の書くところでは、単父は漢代の河内郡山陽県(現代の河南省焦作市山陽区)にあたり、秦代には呂不韋の食邑である「河南洛陽の十万戸」と同じく三川郡に属していたからである[2]。ただし、単父を河内郡山陽県とするのは誤りであり、実際には山陽郡単父県(現在の山東省菏沢市単県)にあたる[3]。
【呂氏系図】(編集)