高畑挺蔵

日本の明治期における耳鼻咽喉科医

高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12月) - 1910年明治43年)8月31日)は、日本明治期における耳鼻咽喉科医。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科教授、現在の長崎大学医学部耳鼻咽喉科の基礎を築く。伊予国出身。

生涯

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1859年1月((旧暦)安政5年12月)、伊予喜多郡内子村(現愛媛県大洲市)に大洲藩士の子として生まれ、初め挺助と称した後に挺蔵に改めた[1]1874年(明治7年)東京外国語学校に入学し、1879年(明治12年)東京大学医学部に入学し、東京大学が東京帝国大学となった1886年(明治19年)度に卒業し、大学同期には伊東重岡田国太郎桂秀馬佐藤恒久鈴木愛之助三輪徳寛等がいた[2]

大学卒業後、大学院に入り助手となり、1888年(明治21年)第五高等中学校医学部教諭となり外科学・外科病理学・外科臨床実学を担当、長崎病院外科医長を兼ね、後に教授に昇任した[1]1894年(明治27年)新潟県長岡病院長に転じたが、1897年(明治30年)8月再び第五高等中学校医学部教授に再任され、長崎病院外科部長を兼務した[1]。1901年(明治34年)4月1日、第五高等中学校から医学部が独立し長崎医学専門学校となると同校教授となり、1902年(明治35年)3月から1904年(明治37年)5月の間、耳鼻咽喉科学研修のためドイツオーストリア留学した[3][4]

帰国後、1904年(明治37年)8月、長崎医学専門学校に耳鼻咽喉科教室を開設し初代教授に就任、1906年(明治39年)7月2日医学博士の学位を授与された[3][5]。長崎医学専門学校在任中の1910年(明治43年)8月31日、51歳で惜しまれつつ急逝。

論文

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  • 「腺様増発性衰弱症論追加他三編」(学位論文)[3]

脚注

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  1. ^ a b c 「日本現今人名辞典」 たP14「高畑挺蔵」の項(日本現今人名辞典発行所 1900年)
  2. ^ 「東京帝国大学一覧 従明治21年至22年」(東京帝国大学 1889年)
  3. ^ a b c 長崎大学. “長崎大学 耳鼻咽喉科-教室の歴史”. 2013年2月3日閲覧。
  4. ^ 「幕末明治海外渡航者総覧 第1巻」 P20「高畑挺蔵」の項(手塚晃・国立教育会館編 柏書房 1992年)
  5. ^ 「大日本博士録 大正11年9月1日」博士番号第126