高村 豊周(たかむら とよちか、1890年明治23年〉7月1日 - 1972年昭和47年〉6月2日)は、日本鋳金家金沢美術工芸大学名誉教授。日本芸術院会員。

高村豊周
1955年撮影

略歴

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高村光雲の三男、高村光太郎の弟として東京下谷区に生まれる[1]津田信夫に入門、1915年(大正4年)に東京美術学校鋳造科本科を卒業する。

1919年(大正8年)、岡田三郎助長原孝太郎藤井達吉らと装飾美術家協会を設立。1926年(大正15年)、東京美術学校助教授。同年、工芸団体・无型(むけい)を組織し、1935年(昭和10年)、実在工藝美術会結成に参加する。 その間、1934年(昭和9年)には帝展審査員に就任[2]。その後も新文展日展審査員を務める。

1933年(昭和8年)、東京美術学校教授、1949年(昭和24年)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授、日展運営会参事、日本芸術院会員。1958年(昭和33年)、日展理事、鋳金家協会会長。1964年(昭和39年)年、正月に宮中歌会始召人となる、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1967年(昭和42年)、勲三等旭日中綬章受章。

東京美術学校在学中に与謝野鉄幹晶子夫妻に師事して短歌を学び、遺歌集も含め4冊の歌集がある。また、光太郎、高村智恵子の顕彰にも努めた。写真家の高村規(ただし)は息子で、光雲・光太郎らの作品鑑定も行っている。

1972年(昭和47年)6月2日、肺炎のため東京都文京区の自宅で死去。6日、同区の吉祥寺で告別式が行われた。墓所は染井霊園

2010年、METAL ART MUSEUM HIKARINOTANI(印西市)にて、「生誕120年記念 高村豊周展」が開催された(会期:2010年8月14日 - 10月17日)[3]

著書

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  • 歌集『露光集』(筑摩書房、1960年)
  • 『光太郎回想』 有信堂、1962年
    『定本光太郎回想』 有信堂、1972年
    『光太郎回想』 日本図書センター〈人間叢書〉、2000年
  • 歌集『歌ぶくろ』 筑摩書房、1966年
  • 『自画像』 中央公論美術出版、1968年
  • 歌集『おきなぐさ』 角川書店、1969年
  • 歌集『清虚集』 文治堂書店、1973年
  • 『高村豊周 鋳金-人間国宝シリーズ26』 講談社、1980年
  • 『鋳-高村豊周作品集』 高村豊周作品集刊行会編、高村豊周作品集刊行会、1981年
    大判の図版本である。
  • 『高村豊周文集』全5巻 高村美佐編、高村豊周文集刊行会、1992 - 1994年
    文集(1909 - 1972年)(1巻 - 4巻)および補遺・草稿(5巻)から構成されている。

エピソード

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銀座のシンボルである4丁目交差点の「和光」の名付け親である。1934年に第1回「和光会工芸展」を銀座服部時計店で開催した。この「和光」の名前を気に入った服部時計店の当時の社長が、後に豊周の同意を得て、服部時計店の名前を「和光」と改めた。

脚注

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  1. ^ 高村豊周 コトバンク 2024年1月2日閲覧。
  2. ^ 審査員決まる、新顔は十三人『東京朝日新聞』昭和9年9月6日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p411-412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 生誕120年記念 高村豊周展」 - METAL ART MUSEUM HIKARINOTANI