飯田年平
飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日(1820年9月12日)[1] - 明治19年(1886年)6月26日)は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。
生涯
編集因幡国気多郡寺内町(現・鳥取県鳥取市)の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる[2]。
秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年(1860年)3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。
明治19年(1886年)6月26日、死去の際に従六位に叙された。飲酒と貧窮の逸話に富み、家庭を営むことなく没す。墓所は青山霊園。
家族
編集- 父:飯田秀雄 - 加知弥神社祠官・国学者。歌人。
- 母:飯田汐子 - 歌人。別名: 白岩志保
- 姉:飯田俊子 - 歌人。
- 兄:飯田秀臣 - 加知弥神社祠官。歌人。
- 妹:原田輝子 - 歌人。養蚕の振興に尽くす。
- 姪:古田むめ - 日本女子美髪学校校長。
出典
編集- 国学者伝記集成 第2巻.続編
- 日本人名大辞典.第1巻
- 明治維新人名辞典
- 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について