飛鳥井 雅敦(あすかい まさあつ)は、戦国時代から安土桃山時代公卿歌人飛鳥井家の第12代当主。

 
飛鳥井 雅敦
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文16年1月5日1547年1月26日
死没 天正6年8月6日1578年9月7日
別名 隆雅(号)
戒名 冷光院隆雅
官位 従三位参議
主君 後奈良天皇正親町天皇
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅春、母:一色義清の娘
兄弟 松木宗満雅敦一色龍雲
不詳
雅庸
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官位従三位参議[1]

生涯

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天文16年(1547年)1月5日、飛鳥井雅春の子として誕生[2]

永禄13年(1570年)1月14日、雅敦は柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚に対し、自身の所領である摂津尼崎本興寺陣取りなどをしないよう求めた[3]

1月27日、父・雅春が歌会を催し、雅敦や山科言継言経父子、中山孝親三条西実澄ら公家衆、細川藤孝一色藤長ら武家も参加した[4]

天正4年(1576年)3月18日、雅敦は自邸の庭にて蹴鞠を行い、勧修寺晴豊山科言経三条公宣三条西公国万里小路充房らが参加した[5]

4月18日、雅敦は自邸の庭にて蹴鞠を行い、日野輝資広橋兼勝高倉永相永孝父子、三条公宣、三条西実枝、山科言経らが参加した[6]

11月23日、雅敦のもとに織田信長が禁裏への礼として赴き、銀子100枚を進上した[7]

天正5年(1577年)1月5日、従三位となる[1]

10月15日、飛鳥井雅敦のもとに織田信忠が禁裏への礼として訪れた[8]

天正6年(1578年)3月28日、雅敦は腫物を患った[9]

4月9日、信長が右大臣就任を辞退すると、雅敦のもとで諸卿の協議が行われた[10]

6月22日、雅敦は病から回復できず、父・雅春が吉田兼見に平癒祈祷を依頼した[11]。翌23日から祈祷が行われ[12]、29日に結願を迎え、御祓・撫物が飛鳥井家に送られた[13]

8月6日、治療や祈祷もむなしく、雅敦は死去した[14]。享年32(満31歳)。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 公卿補任
  2. ^ 『系図纂要』「飛鳥井」
  3. ^ (永禄13年)1月24日付飛鳥井雅敦書状(「本興寺文書」『大』10-4、元亀元年2月16日条)
  4. ^ 『言継卿記』永禄13年1月27日条
  5. ^ 『言経卿記』天正4年3月18日条
  6. ^ 『言経卿記』天正4年4月18日条
  7. ^ 『言経卿記』天正4年11月23日条
  8. ^ 『言経卿記』天正5年11月23日条
  9. ^ 『兼見卿記』天正6年3月28日条
  10. ^ 『兼見卿記』天正6年4月9日条
  11. ^ 『兼見卿記』天正6年6月22日条
  12. ^ 『兼見卿記』天正6年6月23日条
  13. ^ 『兼見卿記』天正6年6月29日条
  14. ^ 『兼見卿記』天正6年8月6日条

関連項目

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