頼仁親王

日本の鎌倉時代の皇族

頼仁親王(よりひとしんのう、建仁元年7月22日1201年8月22日) - 文永元年5月23日1264年6月18日))は、鎌倉時代初期の皇族後鳥羽天皇の皇子。

頼仁親王
続柄 後鳥羽天皇皇子

全名 頼仁(よりひと)
称号 冷泉宮、児島宮
身位 無品、親王
出生 建仁元年7月22日1201年8月22日
死去 文永元年5月23日1264年6月18日)(享年64)
備前国児島
配偶者 花山院経子花山院忠経の娘)
子女 道乗、宝也
父親 後鳥羽天皇
母親 坊門局(西御方、坊門信清女)
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経歴

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岡山県倉敷市木見にある頼仁親王墓(地図 - Google マップ

母は内大臣坊門信清の娘西の御方だが、後鳥羽上皇の側近として権力を誇っていた卿二位こと藤原兼子に養育される。承元4年(1210年親王宣下。母が源実朝の室(西八条禅尼)と姉妹だった関係もあり、建保7年(1219年)の実朝横死後は、兼子の内々の推薦により北条政子によって後継の征夷大将軍に所望されるが、後鳥羽上皇の反対に遭い実現しなかった[1]

承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。

岡山県倉敷市にある修験道の寺院五流尊瀧院の歴代大僧正は、頼仁親王の子孫が務めていると伝わる。

脚注

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  1. ^ 村山[1989: 142]

参考文献

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  • 村山修一『藤原定家』吉川弘文館〈人物叢書〉新装版、1989年