須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

須藤 栄之助
生誕 1891年9月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府
死没 (1969-01-20) 1969年1月20日(77歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913 - 1945
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

経歴

編集

警視庁勤務・須藤直歖の息子として生まれる。東京府立第一中学校仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第2連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)卒業し、野戦砲兵第2連隊中隊長に就任。

1926年(大正15年)3月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、第10師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)12月、陸大専攻学生となり、陸大教官を経て、1933年(昭和8年)3月、砲兵中佐に進級。1935年(昭和10年)8月、兵科航空兵科に転じ航空兵中佐となり陸軍省整備局課員に就任。

1936年(昭和11年)8月、欧米に出張し、帰国後下志津陸軍飛行学校教官(教育部長)に発令され、1937年(昭和12年)3月、航空兵大佐に昇進。日中戦争において、北支那方面軍飛行隊長として参加。1938年(昭和13年)2月、飛行第5連隊長となり、飛行第27戦隊長、陸軍航空本廠付を経て、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し陸軍航空技術研究所総務部長に就任した。1941年(昭和16年)10月、浜松陸軍飛行学校長となり、1942年(昭和17年)12月、陸軍中将に進む。

太平洋戦争においては、1943年(昭和18年)1月、第8方面軍(のち南方軍第4航空軍第7飛行師団長として、南太平洋戦線を戦うも、航空機の枯渇や第4航空軍司令官富永恭次中将の台湾への撤退(一般には逃亡とされる)によって、戦力は壊滅状態となった。以後は、防衛総軍司令部、第1総軍両軍において本土決戦に備え両軍の総参謀長として第1総軍総司令官杉山元元帥大将を補佐する地位に就いていた。1945年(昭和20年)12月、予備役編入となった。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

親族

編集
  • 長男 須藤直彦(陸軍大尉、戦死)

脚注

編集
  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

編集
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。