韓国の消滅した姓氏とは、文献には記録があるが、現在まで継承されていない姓氏を言う。
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
가 |
價 |
カ |
→ 高山、鎮安、高霊價氏
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간 |
干 |
カン |
→ 南陽、羅州、慶州、鉄原干氏
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竿 |
→ 鉄原、海州、東州竿氏
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間 |
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갈 |
碣 |
カル |
牟平碣氏
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강 |
江 |
カン |
済陽、押海江氏(副戸長、あるいは羅州属県江洪、あるいは伯益)。
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개 |
蓋 |
ケ |
汝南蓋氏
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거 |
巨 |
コ |
漢陽巨氏
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건 |
乾 |
コン |
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騫 |
→ 嘉禾騫氏
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검 |
黔 |
コム |
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劍 |
|
견 |
見 |
キョン |
→ 高麗見氏
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결 |
決 |
キョル |
|
경 |
庚 |
キョン |
|
卿 |
|
京 |
今日の韓国の姓氏にも「京氏」はいるものの、2000年の統計でも人口1名に過ぎず、本貫も黄澗となっているが、文献上の「京氏」は、金化や鴻山が本貫らしい。
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耿 |
|
敬 |
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계 |
溪 |
ケ |
|
季 |
|
啓 |
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고 |
顧 |
コ |
2015年の国勢調査では顧氏が33人がいる。
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固 |
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고이 |
古爾 |
コイ |
百済の姓氏。
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곡 |
谷 |
コク |
|
골 |
骨 |
コル |
朝鮮の姓氏。本貫は江華で、朝鮮宣祖の時、進士骨人瑞がいた。
|
공 |
貢 |
コン |
高麗~朝鮮の姓氏。本貫は:水原・仁川が伝わるが、水原貢氏の始祖は高麗後期の文臣貢天源(朝鮮語版)である。仁川貢氏は朝鮮中宗の時、進士を、仁祖の時、文科及第者を輩出した。
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功 |
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恭 |
|
空 |
|
龔 |
|
공손 |
公孫 |
コンソン |
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과 |
瓜 |
クァ |
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곽 |
霍 |
クァク |
|
곽리 |
霍里 |
クァンニ |
漢代楽府の一つ『箜篌引』またの名を『公無渡河』成立に関する逸話に登場する朝鮮の渡し守だったという霍里子高が知られる[* 1]。
|
관 |
官 |
クァン |
|
寬 |
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광 |
光 |
クァン |
|
廣 |
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괴 |
槐 |
クェ |
|
교 |
佼 |
キョ |
|
구 |
仇 |
ク |
|
裘 |
|
瞿 |
|
궁 |
宮 |
クン |
|
귀 |
歸 |
クィ |
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귀실 |
鬼室 |
クィシル |
百済の姓氏。本来、扶余氏だったが、鬼神の感化を受けて分姓したという。百済復興運動を指揮した鬼室福信やその縁者で日本に亡命した百済の遺民鬼室集斯が知られる。日本では、非常に珍しいが鬼室(きしつ)という姓氏として現存する。鬼塚の苗字との関連性が見られる。
|
규 |
圭 |
キュ |
|
극 |
克 |
クク |
|
긍 |
兢 |
クン |
|
기 |
起 |
キ |
|
祈 |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
나 |
那 |
ナ |
|
낙 |
絡 |
ナク |
高句麗椽那部の姓氏中の一つであった。
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諾 |
豆莫婁と渤海の姓氏である。
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내 |
來 |
ネ |
|
녕 |
甯/寧 |
ニョン |
|
노 |
蘆 |
ノ |
|
녹 |
綠 |
ノク |
|
농 |
濃 |
ノン |
|
뇨 |
尿 |
ニョ |
|
능 |
能 |
ヌン |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
대 |
對 |
テ |
|
戴 |
|
대실 |
大室 |
テシル |
高句麗の姓氏。韓国では無くなった姓氏だが、日本に大室(おおむろ)という姓氏として現存する。
|
덕 |
德 |
トク |
|
독 |
獨 |
トク |
|
돈 |
豚 |
トン |
既に1930年の国勢調査で現存しない姓氏だった豚氏だが[1][2]、そこに一つのエピソードがある。『東国輿地勝覧』によれば、統一新羅が分裂した後三国時代を高麗の太祖王建が統一した際、木川地域の百済遺民たちが抵抗運動を繰り広げるので、豚・象・牛・獐などの畜姓を持たせるようにしたという。後にその子孫たちは、それらの姓をそれぞれ頓・尚・禹・長に改めたという[3][4]。
|
돌 |
突 |
トル |
|
동 |
童 |
トン |
|
등 |
登 |
トゥン |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
만 |
漫 |
マン |
|
먀 |
乜 |
ミャ |
|
명림 |
明臨 |
ミョンニム |
|
모 |
慕 |
モ |
渤海の姓氏で、靺鞨系統の姓氏である。
|
목 |
木 |
モク |
百済の大姓八族中の一つであった。
|
목협 |
木劦 |
モッキョプ |
百済の姓氏。以後、木氏と劦氏に分かれたものと見る見解がある。
|
몽 |
蒙 |
モン |
|
(不明) |
𨳈 |
不明 |
門の字を左右に裂いてそれぞれ反対向きに置きなおしたような字(UnicodeのCJK統合漢字拡張Bに収録)。1930年の日本統治下の国勢調査で、既に文献上のみで実在確認できないとされている。なお本貫は文川(朝鮮語版)だったという[5]。また金容権 『増補改訂 韓国姓名辞典』、(2007), p.226 附録の史料「現存しない姓」の中でも㈄の行にあり、「蒙」と「門」の間に置かれている。
|
문 |
門 |
ムン |
1930年の国勢調査時点で既に現存しなかった姓氏である[1][2]が、『朝鮮氏族統譜』(1926)などの文献には門氏の存在と本貫が仁川・松林・仁同など10本に分かれていたことが明記されており、始祖が新羅朝の監門朗将を務めた門必大と見なされる名門で、後孫には代表的人物として高麗朝で侍御使だった門思明がいたが、1985年実施の「人口センサス」の集計結果には含まれておらず[6]、2000年の調査でも確認されていない。
|
물 |
物 |
ムル |
|
미 |
𭥇 |
ミ |
字形は「方+爾」(UnicodeのCJK統合漢字拡張Fに収録)。
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彌 |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
발해 |
渤海 |
パルヘ |
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방 |
芳 |
パン |
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백 |
栢 |
ペク |
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苩 |
三国史記に出典があり、新字典に百済姓氏と解かれた文字である。百済の大姓八族中の一つで、百済滅亡以後には見られなくなる。
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범 |
汎 |
ポム |
|
별 |
別 |
ピョル |
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不明 |
乀 |
不明 |
1930年の国勢調査時点で実在を確認できていないため、この漢字で正しいかも不明(「へ」に似た形をした漢字)で、発音・ハングル表記も共に不明だが、この漢字は漢韓辞典では、“불”(プル)、漢和辞典では「フツ」となっている。金容権, 上掲 (2007), p.226 附録の史料「現存しない姓」でこの字は㈅の行にあり、「別」と「甫」の間に置かれている。
|
보 |
甫 |
ポ |
|
부 |
斧 |
プ |
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部 |
|
附 |
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傅 |
|
부여 |
扶余 |
プヨ |
または余 - 百済の王姓である。義慈王の息子扶余隆が唐から徐氏姓を下賜を受けた後、韓半島に戻ってきたので、扶余氏の後裔の扶余徐氏(朝鮮語版)と宜寧余氏がある。
|
부정 |
負鼎 |
プジョン |
高句麗の姓氏。
|
북 |
北 |
プク |
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ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
사 |
沙 |
サ |
百済の大姓八族中の一つであった。
|
思 |
|
사마 |
司馬 |
サマ |
世宗実録地理志に全羅道羅州牧居平の姓として記録されている。
|
사선 |
沙先 |
サソン |
|
사타 |
沙吒 |
サタ |
|
사택 |
沙宅 |
サテク |
百済の姓氏。
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삭 |
削 |
サク |
|
산 |
山 |
サン |
|
상 |
相 |
サン |
|
常 |
|
嘗 |
|
象 |
既に1930年の国勢調査で現存しない姓氏だった象氏だが[1][2]、そこに一つのエピソードがある。『東国輿地勝覧』によれば、統一新羅が分裂した後三国時代を高麗の太祖王建が統一した際、木川地域の百済遺民たちが抵抗運動を繰り広げるので、豚・象・牛・獐などの畜姓を持たせるようにしたという。後にその子孫たちは、それらの姓をそれぞれ頓・尚・禹・長に改めたという[3][4]。
|
상마 |
相馬 |
サンマ |
|
색 |
索 |
セク |
|
서 |
書 |
ソ |
|
胥 |
渤海の姓氏。
|
석 |
席 |
ソク |
|
釋 |
|
석말 |
石抹 |
ソンマル |
[7]
|
선 |
鮮 |
ソン |
|
善 |
|
섭 |
聶 |
ソプ |
|
소 |
素 |
ソ |
|
㸴 |
固有語‘소’(中世国語読音‘쇼’)から作られた韓国製漢字で記された姓氏で、姓氏専用字である[8][7]。
|
소실 |
少室 |
ソシル |
高句麗の姓氏。
|
수 |
守 |
ス |
|
輸 |
|
壽 |
|
隨 |
|
숙 |
叔 |
スク |
|
수미 |
首彌 |
スミ |
|
숙신 |
肅慎 |
スクシン |
|
승 |
乘 |
スン |
|
僧 |
|
勝 |
|
시 |
時 |
シ |
|
신 |
信 |
シン |
|
新 |
|
莘 |
|
실 |
實 |
シル |
|
심 |
尋 |
シム |
|
쌍 |
雙 |
サン |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
아 |
牙 |
ア |
高麗の姓氏で、僧侶恵勤(朝鮮語版)の俗姓である。
|
악 |
岳 |
アク |
|
안 |
晏 |
アン |
|
알 |
謁 |
アル |
|
앙 |
仰 |
アン |
本貫は延日単本[* 2]である。
|
애 |
哀 |
エ |
|
야률 |
耶律 |
ヤリュル |
|
양 |
陽 |
ヤン |
2015年の国勢調査では陽氏が存在する。
|
揚 |
渤海の姓氏。
|
良 |
済州島建国神話における3始祖の一人である良乙那(ヤンウルナ(양을나))[9]の末裔を称する氏族で、後に梁氏に改めた済州梁氏が有名。
|
凉 |
|
어 |
於 |
オ |
本貫は延安・江陵2本[* 3]があったが、同じ家門であった。朝鮮中期まで科挙合格者を多く輩出した。
|
언 |
彦 |
オン |
|
역 |
力 |
ヨク |
|
연 |
淵 |
ヨン |
高句麗の姓氏で、大莫離支(朝鮮語版)の淵蓋蘇文を輩出した。息子の淵男生が唐に移住して泉氏に変えた。
|
열 |
列 |
ヨル |
|
烈 |
渤海の姓氏である。
|
염 |
閻 |
ヨム |
1930年の国勢調査当時、初めて登場した閻氏[1][2]は、世系の伝を失っており、その考証は難しいが、高麗の太祖朝に、中国から帰化して義刑台令を歴任した閻長が文献上の初見である。1985年、経済企画院実施の「人口センサス」の集計結果285姓氏には含まれておらず[10]、2000年の調査でも発見されていない。
|
영 |
靈 |
ヨン |
|
榮 |
|
英 |
|
令 |
|
영호 |
令狐 |
ヨンホ |
本貫は文化単本[* 2]であった。中国、台湾では現存する姓氏である。
|
예 |
倪 |
イェ |
|
禮 |
|
오 |
吾 |
オ |
2015年の国勢調査では吾氏が存在する。
|
午 |
|
伍 |
1930年の国勢調査時点で既に現存しなかった姓氏である[1][2]が、始祖・世系未詳の白川伍氏の記録と、高麗の忠宣王の時、賛成事に昇った伍允孚が復興伍氏の始祖として文献に現われているが、1985年、経済企画院実施の「人口センサス」の集計結果285姓氏には含まれておらず[11]、2000年の調査でも発見されていない。
2015年の国勢調査では伍氏が存在する。
|
烏 |
渤海の姓氏で、靺鞨系統の姓氏である。
|
옹 |
翁 |
オン |
|
와 |
瓦 |
ワ |
|
왁 |
䢲 |
ワク |
|
완안 |
完顔 |
ワナン |
|
왈 |
曰 |
ワル |
|
요 |
堯 |
ヨ |
|
우 |
又 |
ウ |
|
牛 |
既に1930年の国勢調査で現存しない姓氏だった牛氏だが[1][2]、そこに一つのエピソードがある。『東国輿地勝覧』によれば、統一新羅が分裂した後三国時代を高麗の太祖王建が統一した際、木川地域の百済遺民たちが抵抗運動を繰り広げるので、豚・象・牛・獐などの畜姓を持たせるようにしたという。後にその子孫たちは、それらの姓をそれぞれ頓・尚・禹・長に改めたという[3][4]。
2015年の国勢調査では牛氏が存在している。
|
遇 |
|
祐 |
|
羽 |
|
우진 |
羽真 |
ウジン |
|
욱 |
郁 |
ウク |
|
원 |
員 |
ウォン |
|
原 |
|
위 |
位 |
ウィ |
|
尉 |
|
유 |
有 |
ユ |
|
閏 |
|
犾 |
|
육 |
六 |
ユク |
|
율 |
律 |
ユル |
|
은 |
隱 |
ウン |
渤海の姓氏で、遺民の隠継宗が確認される。隠継宗は高麗に帰化した。
|
을 |
乙 |
ウル |
乙支文徳の子孫を称する木川頓氏によれば、乙支氏は元は乙姓であったという。
|
을불 |
乙弗 |
ウルブル |
|
을지 |
乙支 |
ウルチ |
隋の煬帝の高句麗遠征軍を奇計で打ち破った乙支文徳が知られる。なお、木川頓氏の家譜に拠れば、木川頓氏はこの乙支文徳の子孫を称しており、高麗の仁宗の時に頓山の伯に封ぜられたことから、姓を頓に改めたという。また、乙支の姓も古くは乙姓だったものを乙支文徳の時に乙支姓に改めたという。
|
응 |
應 |
ウン |
|
이 |
弛 |
イ |
|
已 |
|
이선 |
以先 |
イソン |
|
익 |
益 |
イク |
|
翌 |
|
인 |
仁 |
イン |
|
일 |
一 |
イル |
渤海の姓氏。
|
입 |
入 |
イプ |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
자 |
茲 |
チャ |
|
잠 |
蠶 |
チャム |
|
잡 |
雜 |
チャプ |
|
장 |
庄 |
チャン |
2015年の国勢調査では庄氏が存在する。
|
場 |
2015年の国勢調査では場氏が存在する。
|
將 |
|
長 |
既に1930年の国勢調査で現存しない姓氏だった長氏だが[1][2]、そこに一つのエピソードがある。『東国輿地勝覧』によれば、統一新羅が分裂した後三国時代を高麗の太祖王建が統一した際、木川地域の百済遺民たちが抵抗運動を繰り広げるので、豚・象・牛・獐などの畜姓を持たせるようにしたという。後にその子孫たちは、それらの姓をそれぞれ頓・尚・禹・長に改めたという[3][4]。
2015年の国勢調査では長氏が存在しており、409人がいる。
|
萇 |
|
장리 |
墻籬 |
チャンニ |
|
재 |
在 |
チェ |
|
才 |
|
재증 |
再曾 |
チェジュン |
百済の姓氏。
|
정 |
井 |
チョン |
新羅の姓氏で、僧侶真表(朝鮮語版)の俗姓である。
|
적 |
磧 |
チョク |
|
狄 |
|
전 |
專 |
チョン |
|
정 |
貞 |
チョン |
|
廷 |
|
제 |
第 |
チェ |
|
제초 |
齊楚 |
チェチョ |
|
조미 |
祖彌 |
チョミ |
百済の姓氏。
|
종 |
種 |
チョン |
|
좌 |
佐 |
チャ |
2015年の国勢調査では佐氏が存在する。
|
주 |
珠 |
チュ |
|
중실 |
仲室 |
チュンシル |
高句麗の姓氏。
|
즉 |
則 |
チュク |
|
증 |
曾 |
チュン |
2000年、2015年の国勢調査では曽氏が存在する。
|
지 |
知 |
チ |
|
遲 |
|
직 |
直 |
チク |
|
진 |
珍 |
チン |
|
震 |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
찰 |
察 |
チャル |
|
책 |
冊 |
チェク |
|
翟 |
|
척 |
拓 |
チョク |
本貫は谷山であって、拓俊京を始祖とした。世宗実録地理志に亡姓と記録されたものとして見るので、朝鮮前期にすでに消滅したものと考えられる。
|
천 |
泉 |
チョン |
ㅇの淵を参照。
|
촉 |
燭 |
チョク |
|
총 |
総 |
チョン |
|
추 |
追 |
チュ |
|
왹 |
𨶠 |
ウェク |
金容権, 上掲 (2007), p.226 附録の史料「現存しない姓」でこの字は㈉の行の末尾に置かれているのにもかかわらず、この姓の読みを왹(ウェク)としているのは、こちらのウェブサイトの記載[12]に基づく。このサイトはまた、李徳懋の『盎葉記』によれば、広州にこの姓を持った人があり、自ら称して、音は臥と億の反切であると言っていた、といい、『証正篇海』には、この字は魚と列の反切で、その音は孽(ゲツ、[얼]; オル)となっており、『字彙補』には「門𨶠である」という[12]。字音に関しては、こちらのサイトも『字彙補』を引いて「ゲツ」と説明している[* 4]。
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
파 |
巴 |
パ |
|
판 |
板 |
パン |
|
표 |
票 |
ピョ |
|
標 |
|
풍 |
酆 |
プン |
|
필 |
疋 |
ピル |
|
畢 |
朝鮮王朝時代に文科及第者に畢蒙陽(ひつ もうよう、필몽양;ピル モンヤン)がおり、旧韓末[* 5]に畢大殷(朝鮮語版)がいた。中国、台湾では現存する姓氏である。
|
必 |
|
ハングル |
漢字 |
読み方 |
備考
|
하 |
何 |
ハ |
|
賀 |
渤海の姓氏。
|
하후 |
夏侯 |
ハフ |
|
합 |
合 |
ハプ |
|
항 |
恒 |
ハン |
|
해 |
解 |
ヘ |
三国時代~南北国時代にかけて見られる姓氏。扶余の王族である解慕漱・解夫婁・解婁らがいて、百済の大姓八族中の一として解忠・解明(朝鮮語版)・解仇らがいた。南北国時代には渤海の解楚卿(朝鮮語版)が確認される。
|
행 |
幸 |
ヘン |
|
향 |
香 |
ヒャン |
|
혁련 |
赫 |
ヒョク |
|
혁련 |
赫連 |
ヒョンニョン |
高麗の姓氏として、中期に赫連挺(朝鮮語版)という学者がいた。
|
현 |
県 |
ヒョン |
|
협 |
劦 |
ヒョプ |
百済の姓氏で、大姓八族中の一つだった。ただし、残りの七個の姓氏とは違って資料に劦氏の人物の例が見られず、木劦氏から別れた姓氏と見る見解がある。
|
형 |
刑 |
ヒョン |
|
荊 |
|
혜 |
嵇 |
ヘ |
世宗実録地理志に全羅道霊岩郡に土姓として記録されている。
|
호 |
好 |
ホ |
|
홍 |
弘 |
ホン |
|
화 |
花 |
フヮ |
|
和 |
|
華 |
高麗の姓氏。
|
효 |
孝 |
ヒョ |
|
후 |
侯 |
フ |
|
훈 |
訓 |
フン |
|
휭 |
遤 |
フィン |
馬が走りながら出す音(フィン)からできた擬声語の姓氏であって、朝鮮時代に記録が残っている。
|
흑치 |
黑齒 |
フクチ |
百済の姓氏。代表的人物としては、百済復興運動を始めた黒歯常之がいる。
|
흔 |
昕 |
フン |
高麗の姓氏で、醴泉権氏(朝鮮語版)の本来の姓氏である。
|
희 |
曦 |
ヒ |
|
- ^ a b c d e f g 朝鮮総督府 『朝鮮の姓』(1934), p.72
- ^ a b c d e f g 金容権 『増補改訂 韓国姓名辞典』(2007), p.226
- ^ a b c d 金鎮宇 『韓国人の歴史』(2010), p.244
- ^ a b c d 杜若甫 『中国少数民族姓氏』(2011), p.409
- ^ 朝鮮総督府 『朝鮮の姓』(1934), p.56
- ^ 『韓国人の姓氏と族譜』(2008), p.739
- ^ a b 李睟光の『芝峯類説』では、「星州に㸴氏があるのだが、音は小(ソ)である。おおよそ方言で牛を呼ぶ時の声という。『東国史』に石末天衢という人がいるのだが、石末2字が訛伝せられて㸴字となったものでないかという」とある。
- ^ 出典:『芝峯類説』, 『畵永篇下』, 『吏讀便覽』, 『五洲衍文長箋散稿』 。
- ^ 「「I 離島の変転する歴史」建国神話」『韓国済州島』中央公論社〈中公新書〉、1996年。ISBN 4121013263。
- ^ 『韓国人の姓氏と族譜』(2008), p.746
- ^ 『韓国人の姓氏と族譜』(2008), p.745
- ^ a b 代表:パク・サンマン(대표 박상만) (2017年6月10日). “[스크랩] 해동역사 제31권 [관씨지(官氏志) 2]” [[スクラップ]海東歴史第31巻[官氏志]] (朝鮮語). SJG energy. 2019年3月8日閲覧。
- ^ 崔豹(中国語版)の『古今注』に、「『箜篌引』は、朝鮮の渡し守であった霍里子高の妻である麗玉が作ったものである。子高が朝起きて船に棹さしていたところ、白髪の狂人が一人、髪を振り乱し徳利をぶら下げて渦巻く流れを渡ろうとし、その妻が追いすがって止めようとするが及ばす、河に落ちて死んでしまった。そこで箜篌を抱えて歌って曰く『公 河を渡る無かれ。公 竟(つい)に河を渡る。河に堕ちて死す。将(は)た公を奈何(いかん)せん!』と。その声は甚だしく悽愴であった。曲が終わると彼女もまた河に身を投げて死んだ。子高は帰ると、それを麗玉に話した。麗玉はそれを傷み、自分の箜篌を引き寄せて、その声を真似た。それを聴くもので、涙を落としながら忍び泣きしないものはなかった。麗玉はその曲を隣の娘の麗容に伝え、名付けて『箜篌引』と言う」とある。北宋の郭茂倩(かくもせん)による楽府の総集『楽府詩集』にも引用されて有名な説話である。原文: 崔豹 (中国語), 『古今注』「巻三」音楽 第三, ウィキソースより閲覧。
- ^ a b 本貫が単一であるという意味。本は本貫を数える単位(助数詞)でもある。
- ^ 本貫を数える単位(助数詞)でもある。
- ^ “K'sBookshelf 辞典・用語 漢字林(非部首部別) 鳥部”. K'sBookshelf. 2019年3月8日閲覧。
- ^ 大韓帝国時代(1897年 - 1910年)のこと。
- (朝鮮語)『韓國固有漢字硏究』집문당、1992年。
- 朝鮮総督府 編(日本語)『朝鮮の姓』(復刻版)第一書房 (朝鮮総督府)、東京 (京城府)、1977年、56-57頁。
- 『増補改訂 韓国姓名辞典』(増補改訂版)三修社、2007年。ISBN 9784384011708。
- 「새역사」역사편찬회 編(朝鮮語)『한구인의 성씨와 족보(韓国人の姓氏と族譜)』(第3版)図書出版オンブックス(도서출판 온북스 (onbooks))、ソウル、2008年。ISBN 8995435135。
- (朝鮮語)『한구인의 역사(韓国人の歴史)』(第3刷)図書出版 春秋筆法(도서출판 춘추필법 )、大田、2010年。ISBN 9788996301202。
- 「朝鲜族」(中国語)『中国少数民族姓氏』民族出版社、北京、2011年、399-443頁。