雲松院(うんしょういん、享保2年8月1日1717年9月5日) - 延享2年閏12月16日1746年2月6日))は、紀伊徳川家当主徳川宗直の娘で、征夷大将軍徳川吉宗の養女。仙台藩伊達宗村の正室で藩主伊達重村の養母[1]。同じく吉宗の養女である浄岸院の養妹にあたる。本名は峰姫、後に利根姫(とねひめ)。伊達家に入って温子(はるこ)。『幕府祚胤伝』では綱子。将軍養女なので当然、本人および幕府からの付属官吏は須原屋版武鑑に登場しており、武鑑では利根姫で記載される。

利根姫像(仙台市博物館蔵)

仙台市博物館に肖像画があり、『仙台市史 通史5 近世3』に掲載されている[2]

経歴

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享保2年(1717年)8月1日出生。生母は斉藤氏。徳川宗将の異母姉で、熊本藩細川宗孝の正室である喜姫の同母姉にあたる。同6年(1721年)に疱瘡、同15年(1730年)に麻疹を患う。

享保18年(1733年)より仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村との縁談が進められ、享保20年(1735年4月23日に徳川吉宗の養女となって将軍家に入り、同年5月7日に宗村と婚約し、同年11月28日に婚礼を挙げる。

婚約の正式発表とともに、徳川将軍家の娘を正室に迎える慣例により同年、愛宕下の江戸藩邸中屋敷の一角に幕府指導の下、御守殿が造営される。また仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止、および利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を6000両と決定された。

元文2年(1737年)閏11月15日に温子と改名。元文4年(1739年)に源姫を出産。源姫は後に佐賀藩鍋島重茂の正室となる。なお「寛政重修諸家譜」の伊達氏系図の記述では何故か元文元年(1736年)に娘の源姫とともに江戸城大奥に参ったとある。

寛保3年(1743年)に夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方[3]が中屋敷の御守殿に準じて改築され、延享2年(1745年)に温子は上屋敷に移る。同年12月3日に2番目の女児を出産するが夭折し、本人も同年閏12月16日に死去した。戒名は雲松院殿梅月浄馨大姉。墓所は大年寺

幕府側官吏

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将軍家の養女は実子同様に扱われ、婚礼後も幕府より姫様方用人などの直臣の官吏が派遣される。役人から駕籠かきまで49人、女中69人に及ぶ。幕府出向者は利根姫死去以降は幕府に戻った。また、仙台藩側からも利根姫専属の御守殿付役人95人が任命された。なお、「寛政重修諸家譜」によると寛保3年(1743年)から延享2年(1745年)まで川勝光隆が利根姫様方用人を勤めている。

元文六年武鑑掲載の幕府側官吏

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元文6年(1741年刊行の武鑑での利根姫の付属官吏は以下のとおり。なお、武鑑の掲載都合により、実際とは若干の差がある場合がある。

【利根姫様用人】

久保十兵衛大田嘉兵衛

【同(利根姫様)用達】

山本又十郎

【同(利根姫様)御番医

小森西論(小森西倫の誤記)

【同(利根姫様)侍衆】

今井甚之丞、鈴木文次郎、萩原権九郎、馬場三左衛門、鈴木傳七郎

【同(利根姫様)台所番】

清水忠次郎

脚注

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  1. ^ 「仙台叢書 第一巻」の『伊達略系』
  2. ^ 掲載は同書70頁。図版47号
  3. ^ 仙台藩では幕府の大奥にあたるものを、奥方と呼び、特に仙台城の奥方を中奥というと『仙台市史 通史5 近世3』にある

参考文献

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  • 堀内信『南紀徳川史 第2巻』(昭和5年(1930年)12月28日刊行)
  • 橋本博『大武鑑 中巻』(名著刊行会)
  • 『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
  • 『仙台市史 通史4 近世2』(平成15年(2003年)・仙台市史編さん委員会)
  • 『仙台市史 通史5 近世3』(平成16年(2004年)・仙台市史編さん委員会)
  • 『仙台叢書 第一巻』(仙台叢書刊行会、大正11年(1922年)発行)