雑種賎民

日本史における、穢多と非人を除く被差別民

雑種賎民(ざっしゅせんみん)は、日本の歴史上における賎民のうち、穢多非人を除き、かつて卑賎視された身分の多種雑多な者(被差別民)をいう。

河原巻物』には30数種の職種長吏の支配下であるとされ[1]元禄3年(1690年)の『人倫訓蒙図彙』に44種、享保年間(1716年1735年)の弾左衛門が幕府に提出した由緒書には配下として28種[2][3]文政年間(1818年1829年)の『嬉遊笑覧』に29種、本居内遠の『賎者考』に50種[4][3]の賎民が言及されている。

実態

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『人倫訓蒙図彙』(元禄年間)にみえる門説経
ささら胡弓三味線の3人組による門付芸として描かれている。

彼らの多くは集落を作らず、定住性が低く、時には家族さえ為していなかった。全国を支配する国家体制がなかった中世には支配の間隙にあり、把握や統制は問題にならなかった。

天下統一のはじまる安土桃山時代には一部が権力に把握され、「かわた」身分として近世的統制を受けるなどした。

江戸時代には幕藩体制の確立に伴い全地域・全人民の人別把握が不可欠となったため、雑種賎民への統制が開始・強化された。

地域別の雑種賎民

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雑種賎民の役務

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雑種賎民の中には幕藩勢力から役務を申し付けられたものもある。

  • 猿飼弾左衛門の支配下にあり、江戸城西丸下の厩や武家屋敷での馬の祈念などをした。そのほかに大道で猿の芸を見せることもあり、地方巡業にも出かけた[5]
  • 乞胸(ごうむね)は家業について非人頭車善七の支配を受けており、江戸浅草溜の火災の際、御用書物を持ち出した。『寛政度文政度御尋乞胸身分書』によると、乞胸の始まりは大道芸で糊口をしのいでいた浪人で、次第に人数が増えたところ、非人頭車善七から職域侵犯であると抗議され、両者協議の末、乞胸は町人の身分のまま、稼業に関してのみ善七の支配下になることで決着した。乞胸は空き地や大道で芸をし、門付非人のみが許された[6]
  • 加賀藩の藤内は葬送・隠密御用・牢番・行刑などを務めた。
  • 伊勢国十二郡に広く分布したささら園城寺(近江三井寺)支配下で、城掃除、死刑・拷問、下級行刑役、町の見回り、寺社の開帳。法食の立ち食い、芝居、行倒人の始末、火消しなどの役務を負った。
  • 鳥取藩鉢屋は生業として竹細工を営んでいたが(それにより茶筅とも呼ばれた)、犯人の逮捕・牢番の役務があった。
  • 鹿児島藩の慶賀はその名の通り、藩の慶祝行事に関係していた他、牢番の役務があった。

脚注

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  1. ^ 『兵庫の部落史』第1巻
  2. ^ 長吏座頭舞々猿楽陰陽師壁塗土鍋師鋳物師辻目睡非人猿曳弦差石切土師師放下師笠縫渡守山守青屋坪立筆結墨師関守獅子舞傀儡師傾城屋釟扣鏡内。必ずしも全てが弾座衛門支配下という訳ではなかった。
  3. ^ a b 『日本庶民生活史料集成』第十四巻
  4. ^ 散所、陰陽師、梓巫女神事舞田楽法師、猿楽、放下師遊女白拍子傾城夜発傀儡女飯盛女越後獅子願人僧俳優浄瑠璃芝居観物師舌耕術者弦売僧高野聖事触偽造師狙公堂免俑具師刑殺人青楼肝煎勧進比丘尼犬神男色神結伯楽盲目放免浄瑠理語妖曲歌浮浪行乞乞食伎丐丐頭難渋町番太熅房、穢多、皮細工。江戸中期の紀伊国における賎民・社会的階層民を列挙。
  5. ^ http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/geinou/geinou03.html
  6. ^ http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/siryou/goumune.html

参考文献

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  • 小林 茂 、三浦 圭一、脇田 修、芳賀 登、森 杉夫 編『部落史用語辞典』柏書房、1990年。ISBN 978-4760105670 
  • 臼井 寿光 編『兵庫の部落史〈第1巻〉近世部落の成立と展開 (のじぎく文庫)』神戸新聞総合出版センター、1991年。ISBN 4-87521-697-1