陸琇
経歴
編集陸馛の五男として生まれた。母は赫連氏。陸馛が死去すると、陸琇は建安王の爵位を嗣いだ。沈毅で寡黙な性格であり、読書を好んだ。功臣の子孫として侍御長・給事中となり、黄門侍郎に転じた。太常少卿・散騎常侍・太子左詹事・領北海王師・光禄大夫に任じられ、祠部尚書・司州大中正に転じた。497年(太和21年)、従兄の陸叡の事件に連座して免官された。500年(景明元年)、河内郡太守を代行した。501年(景明2年)、咸陽王元禧が反乱を計画し、子の元曇和と尹仵期・薛継祖らに河内を占拠させようとした。元禧が敗死すると、陸琇は元曇和を斬首した。しかし陸琇は元禧と情を通じていたものと糾弾されて、廷尉に取り調べられた。廷尉少卿の崔振が罪状を糾明して、陸琇が反乱に加担していたものと断定され、陸氏の一族はみな逮捕・収監された。陸琇は恩赦が出る前に獄死した。弟の陸凱が冤罪を訴えて、宣武帝により陸琇の爵位は追って回復された。
子の陸景祚が後を嗣いだ。