崔振
北魏の官僚
経歴
編集崔郁(崔琨の子)の子として生まれた。中書学生から秘書中散となり、宮中で謹直に命に従い、孝文帝に知られるようになった。咸陽王元禧の下で冀州驃騎府司馬となり、在任すること長かった。496年(太和20年)、建威将軍・平陽郡太守に任じられた。赴任しないうちに、高陽国内史に転じた。孝文帝が南征すると、崔振は召されて尚書左丞を兼ね、洛陽の留守をつとめた。499年(太和23年)、職令が改定されると、崔振は五品に擬され、太子庶子に任じられた。500年(景明元年)、長兼廷尉少卿に任じられた。501年(景明2年)、河内郡太守の陸琇が咸陽王元禧と反乱を計画していたことが発覚すると、崔振は陸琇の罪状を徹底的に糾明して、陸琇を獄死させた。正始初年、龍驤将軍・肆州刺史に任じられ、在任中に治績を挙げた。洛陽に召還されて、河東郡太守に任じられた。永平年間、河東郡で死去した。享年は59。龍驤将軍・南兗州刺史の位を追贈された。諡は定といった。