阿部正敏
阿部 正敏(あべ まさとし)は、江戸時代中期の譜代大名、大坂城代。忠秋系阿部家6代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 |
享保15年(1730年) ※享保17年4月28日(1732年5月22日)とも |
死没 | 天明7年4月2日(1787年5月18日) |
別名 | 般之進、満之進、織部 |
墓所 | 多磨霊園 |
官位 | 従五位下能登守、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、大坂城代 |
藩 | 武蔵忍藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 |
父:阿部正喬、母:草本氏(正喬の側室) 養父:阿部正允 |
兄弟 | 正秋、正乗、正直、正敏 |
妻 | 正室:水野忠辰の養女(水野忠輝の娘) |
子 |
正識、正良(次男)、 娘(戸田光悌正室)、娘(森俊韶正室)、 娘(内藤正興正室)、娘(阿部正識養女、阿部正由正室) 養子:正陳 |
人物
編集忍藩4代藩主・阿部正喬の五男として生まれる。正喬が隠居した際、まだ若年だったため、従兄の正允が家督を継いだ。寛保2年(1742年)に嫡子となったが、正允が長命を保ったため、家督を継いだのは安永9年(1780年)、51歳のときである。翌天明元年(1781年)に奏者番となる。正敏は江戸屋敷がたまたま当時の実力者田沼意次邸の隣で、意次が屋敷地の拡張を希望していると聞くや、自分の屋敷地を幕府に返上、幕府は意次に下賜する形で譲渡している。一方、藩内では、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火や、天明6年(1786年)におこった大洪水で被害をうけ、藩財政が逼迫した。
天明4年(1784年)、奏者番から大坂城代に昇格したが、在任中の天明7年(1787年)に死去した。 先代藩主・正允の次男・正陳を養子としたが、父に先立って死去。このため、実子の長男・正識が家督を継いだ。
年譜
編集官位位階
編集系譜
編集父母
正室
側室
- 河合氏
子女
養子
参考文献
編集- 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
- 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第十、八木書店、1969年。