阿端衛
阿端衛(あたんえい)は、河西回廊に明朝が設置した羈縻衛所の一つで、現在の中華人民共和国甘粛省・青海省・新疆ウイグル自治区の境界線上に位置していた。阿端衛はチャガタイ系安定王家を戴く安定衛から派生した衛所であり、時代によって安定衛との統廃合が行われたが、最終的に正統年間に廃止された。
概要
編集阿端衛の設置された土地はサリク・ウイグル(現代のユグル族)と呼ばれる民族が住む一帯であり、元代より続くチャガタイ系安定王家の勢力圏であった。洪武7年(1374年)、安定王ブヤン・テムルは明朝に使者を派遣して明朝の冊封を受け、阿端方面の酋長もまた銅印を支給された[1]。洪武8年(1375年)、ブヤン・テムルは再び使者を明朝に派遣して明朝の官職を授けるよう請願し、これを受けて洪武帝は安定衛・阿端衛を設置した[2]。しかし洪武10年(1377年)には安定衛のブヤン・テムルとその息子が曲先衛の者達に殺されるという事件が起き、その後も番将ドルジバルがこの一帯を転戦したためサリク・ウイグル地方は荒廃し、阿端衛は一時敗廃止されるに至った。
永楽4年、阿端方面の頭目小薛忽魯札は明朝に来朝して阿端衛の復活を請願し、永楽帝はこれを許してソセ・クルジャ(小薛忽魯札)を阿端衛指揮僉事に任じた[3][4]。
宣徳年間、阿端衛指揮僉事のスルタン(瑣魯丹)は曲先衛の散即思による叛乱に荷担したため、明朝の報復を恐れて源住地を逃れ、生業に復帰することが出来ない状況にあった。そこで宣徳6年(1431年)、鎮守西寧都督の史昭は瑣魯丹が曲先衛の叛乱に荷担したのは散即思の脅迫によるやむを得ない事であったとして、改めて阿端衛を招撫すべしと上奏し、宣徳帝はこれに従った[5]。
このため、宣徳7年(1432年)に阿端衛の指揮同知真只罕は安定王亦攀丹とともに使者を明朝に派遣し[6]、これを喜んだ宣徳帝はジェンジカン(真只罕)を阿端衛指揮僉事とし、卜答兀にこれを補佐させた。明朝の招撫を受けた真只罕は阿端衛の旧城は中央アジアとの境界線に近く、明朝に朝貢するのに難儀なため、本土に移住することを請願した。宣徳帝はこの請願に従い、印を支給し璽書を真只罕に賜った[7]。これ以後、阿端衛は指揮同知ジェンジカンや指揮卜答虎らが屡々明朝に朝貢使を派遣するようになった[8][9][10]。
正統元年(1436年)、阿端地方の頭目シャー・ハサン・ミルザ(捨哈三米児咱)は使臣としてウマル(兀馬児沙)ら30人を明朝に派遣した[11]が、道中で罕東頭目の可児即らによって掠奪を受け、亦的力思ら9人のみが逃れて北京に辿り着くという事件が起こった[12]。そこで明朝は沙州衛都督僉事困即来と罕東衛指揮僉事可児即らに掠奪した物品を返還するよう勅諭し、困即来はこの後使者を護送して派遣するようになった[13]。
正統2年(1437年)、阿端地方の頭目サラムシャー・ミルザ(撒剌馬沙米児咱)はティムール朝などの西方の諸勢力と共に使者を派遣し[14]、明朝より返礼として下賜品を与えられた[15]。正統8年(1443年)には阿端衛指揮同知の準者罕が昇格して指揮使とされた[16]。
正統10年(1445年)、阿端地方の頭目ババジ(把把竹)・バヤジット(拝牙即)らは敏阿禿失保丁らを明朝に派遣し[17]、明朝より下賜品を与えられた[18]。
正統年間末期には明朝とエセン・タイシ率いるドルベン・オイラトとの抗争が激しくなり、正統12年(1447年)には阿端を含む河西地方から軍馬が徴集された[19]。正統13年(1448年)には阿端を含む河西地方はオイラトの支配下に入り、阿端地方からはバイランシャ(伯藍舎)やホージャ・マフムード(火者馬黒麻)らがオイラトと共同で使者を明朝に派遣するようになった[20][21]。この頃に「阿端衛」は完全に解体されたようで、この後復活することはなかった。
阿端地方統治者
編集バイダカン安定王家
編集- バイダカン(Baidaqan、拝答寒/Bāīdaghānبایدغان)
- 安定王トガン(Toγan、安定王脱歓/Ṭūghānطوغان)
- 安定王ドルジバル(Dorǰibar、安定王朶児只班)
- 安定王ブヤン・テムル(Buyan Temür、安定王卜煙帖木児)
阿端衛統治者
編集- 阿端衛指揮僉事ソセ・クルジャ(小薛忽魯札)
- 阿端衛指揮僉事スルタン(瑣魯丹)
- 阿端衛指揮同知ジェンジカン(真只罕/準者罕)
阿端地方頭目
編集- シャー・ハサン・ミルザ(捨哈三米児咱)
- サラムシャー・ミルザ(撒剌馬沙米児咱)
- ババジ(把把竹)
- バヤジット(拝牙即)
- バイランシャ(伯藍舎)
- ホージャ・マフムード(火者馬黒麻)
脚注
編集- ^ 『明太祖実録』洪武七年六月壬戌「西域撒里畏兀児安定王卜煙帖木児遣其府尉麻答児・千戸剌爾嘉、来朝貢鎧甲刀剣等物。撒里畏兀児者韃靼別部也。其地広袤千里去甘粛一千五百里、東抵罕東、西距天可里、北邇瓜沙州、南界吐蕃、居無城郭、以氊帳為廬舎、産多駝馬牛羊。至是、来朝貢、詔遣使賜卜煙帖木児織錦・文綺・四匹麻答児等羅衣二。仍命召其酋長立為四部、給銅印曰阿端、曰阿真、曰苦先、曰帖里」
- ^ 『明太祖実録』洪武八年正月丙戌「置安定・阿端二衛指揮使司、従撒里畏兀児卜煙帖木児之請也。以沙剌為指揮同知、亦班蔵卜・卜理不花・護出完者帖木児為指揮僉事」
- ^ 『明太宗実録』永楽四年七月丙申「于闐遣使臣満剌哈撒木丁及阿端衛指揮僉事倫只巴来朝貢方物賜白金・綵幣、有差」
- ^ 『明太宗実録』永楽四年十一月甲申「復置阿端衛、命来朝頭目小薛忽魯札等為指揮僉事等官、給以印章。阿端衛本洪武中所置、後為朶児只巴攻刼遂廃。至是、小薛等以請故復置焉」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳六年正月庚寅「鎮守西寧都督史昭奏、阿端衛官民先従曲先為逆、懼罪竄逸雖蒙撫諭仍依曲先雜処、未復職業。今曲先順服、阿端官民亦宜招撫。上命昭遣人齎勅往諭使還故地…」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳七年正月丙戌「安定王亦攀丹遣指揮果脱不花・阿端等衛指揮同知真只罕、来朝貢馬」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳七年正月己丑「命指揮同知真只罕掌阿端衛事指揮僉事、卜答兀副之。真只罕者本帖児谷人、其故父瑣魯丹、初授阿端衛指揮僉事、嘗為曲先衛賊首散即思所脅刼掠、使臣及朝廷調軍征勦鎖魯丹、懼罪遠遁失其所受印。朝廷知刼掠非其本心、遣人撫諭之、真只罕乃引部属還処帖児谷、至是来朝貢馬。自陳、阿端旧城乃回回之境、去帖児谷尚一月程、難於朝貢、乞移置本土為便。時鎮守西寧都督僉事史昭亦以為言従其徙。仍給衛印賜璽書撫諭之」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳七年二月辛丑「賜安定王所遣指揮使果脱不花・阿端等衛指揮同知真只罕等鈔・綵幣・表裏等物、有差。仍命果脱不花等齎勅及綵幣・表裏帰賜安定王亦攀丹」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳七年二月乙巳「賜朝鮮国並瓦剌阿端等処貢使宴」
- ^ 『明宣宗実録』宣徳八年十二月戊辰「安定王亦攀丹遣弟卻失加黒巴、阿端衛指揮卜答虎遣弟把都卜花・的里木地剌麻堅著児、罕東衛故指揮綽児吉子川班児加革巴簇使臣領占黒巴等、来朝貢馬」
- ^ 『明英宗実録』正統元年閏六月乙亥「阿端地方頭目捨哈三米児咱等遣使臣亦的力思等、哈密忠順王卜答失里遣指揮速来蛮等、建州衛女直指揮李満住遣男古納哈等、倶来朝貢馬駝方物。賜宴並綵幣等物、有差」
- ^ 『明英宗実録』正統元年二月戊戌「勅諭沙州衛都督僉事困即来・罕東衛指揮僉事可児即等、還所掠西番貢物。先是、西番阿端頭目捨哈三米児咱遣使臣兀馬児沙等三十人来朝貢玉石方物、至卜隆吉境上、被可児即弟寫令阿只加等率所部刼掠殺死兀馬児沙等二十一人、止存亦的力思等九人脱走至京、総兵官太保寧陽侯陳懋以聞…」
- ^ 『明英宗実録』正統元年十月癸未「陞沙州衛都督僉事困即来為都督同知、所鎮撫克満丁為副千戸舎人速答為所鎮撫、賜綵幣有差。先是、阿端地面酋長亦的力思・馬哈麻等来貢方物、為西番野人罕東頭目可児即等所掠、困即来奉命率衆追回遣克満丁護送来京。上嘉之故有是命」
- ^ 『明英宗実録』正統二年七月壬辰「哈密忠義王脱歓帖木児遣使宰奴丁、撒馬児罕頭目遣使馬黒木・禿敏禿、兀魯伯曲列干男米列遣使格来敏哈禿、哈失哈力頭目遣使鎖魯檀米列、阿端地面遣使阿速蛮等、倶来朝貢馬駝方物。賜宴並綵幣鈔絹、有差」
- ^ 『明英宗実録』正統二年十二月庚午「命亦力把里及阿端・曲先等地面使臣齎勅及金織・表裏・綵絹、賜其王母倒剌速魯擅・頭目撒剌馬沙米児咱・馬黒麻癿等」
- ^ 『明英宗実録』正統八年二月壬寅「陞曲先等衛都指揮僉事那那罕為都指揮同知、指揮同知亦思蛮・朶里只白・帖木児哈児魯・帖木児撒児只伯克禿倶為指揮使、指揮僉事瓦思答児為指揮同知、故阿端衛指揮同知準者罕為指揮使、指揮僉事桑思答児革里麻古亦失拝剌麻朶児只倶為指揮同知、命指揮僉事卜答古子搠因拝子剌襲職」
- ^ 『明英宗実録』正統十年正月癸卯「広西泗城州頭目岑俊…阿端地面使臣敏阿禿失保丁等、倶貢馬及方物。賜宴並鈔綵幣絹布衣服等物、有差」
- ^ 『明英宗実録』正統十年二月丙辰「勅諭阿端地面頭目把把竹・拝牙即等並賜綵幣等物、倶命来使敏阿禿失保丁等齎与之」
- ^ 『明英宗実録』正統十二年四月丙午「巡按陝西監察御史馮靖奏、徴收西寧・罕東・安定・阿端・曲先五衛番民馬二千九百四十六匹、給茶一十二万五千四百三十斤」
- ^ 『明英宗実録』正統十三年四月甲申「哈密中順王忠順王倒瓦答失里・亦里把力地面亦速力火者王及亦迷力火者王・阿剌木地面頭目討瓦干・阿端地面頭目伯藍舎……等倶遣人来朝貢馬、賜宴並綵幣表裏、有差」
- ^ 『明英宗実録』正統十三年十一月壬寅「迤北瓦剌脱脱不花王並太師也先遣使臣完者帖木児等、哈密忠順王倒瓦答失里遣知院馬黒麻、同失児湾地面百戸拝牙即、剌木地面鎮撫哈辛滅、阿端地面火者馬黒麻等、海西阿答赤河等三十五衛野人女直指揮阿衡加等福餘・朶顔・泰寧三衛頭目忽剌歹等、倶來朝貢馬駝及方物。賜宴並襲衣・鈔幣等物、有差」
参考文献
編集- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 『明史』巻330列伝218