バイダカンモンゴル語: Baidaqan、生没年不詳)は、チャガタイの庶長子のモチ・イェベの孫で、モンゴル帝国の皇族。チャガタイ・ウルスの内乱を避けて河西地方に移住し、安定王家の祖となった。『元史』などの漢文史料では拝答寒、『集史』などのペルシア語史料ではبایدغان (Bāīdaghān)と記される。

概要

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モチ・イェベはチャガタイの息子の中で最も年長であったが嫡出・庶出の区別の厳しいモンゴル社会では後継者として重視されず、その息子たちの事跡も殆ど記録されていない。モチ・イェベの息子のテクシの息子であるバイダカンは帝位継承戦争以来混乱の続く中央アジアを離れ、1270年に大元ウルスに移住し[1]、王爵を授与された。

同年、移住してきたバイダカン率いる遊牧集団は疲弊していたため、遊牧生活を維持できる者たちはジュンガリア西部のコンクル・オルン(黄忽児玉良/Qongqur-ölüng)に、そうでない者たちは河西の諸城(粛州・沙州・甘州)に収容した[2][3]

バイダカンら大元ウルスに移住したチャガタイ系諸王は皆河西地方に居住し、クムルを拠点とするチュベイを中心とした緩やかなまとまり(チュベイ・ウルス)を形成していた。このため、バイダカンはチュベイとともに屡々カイドゥの軍勢と戦っており、1290年(至元27年)にはチュベイとともにジャンギ・キュレゲンなる将の軍を撃退したことが記録されている[4]。クムルの豳王家を頂点として周囲のチャガタイ系王家が連合体を形成する、といった状況は明朝に入っても変わらず、哈密衛(チュベイ家)と安定衛(バイダカン家)・沙州衛(スレイマン家)との関係にも引き継がれた。

子孫

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ティムール朝で編纂された『高貴系譜』にはバイダカン(Bāīdaghān)の息子にトガン(Ṭūghān)がいたことが記されており、これが漢文史料に記される「安定王脱歓」に相当すると見られている[5]。トガンは皇慶2年(1313年)に朝廷から安定王に封ぜられ[6]、これ以後トガンの家系は「安定王」と称するようになった。

泰定年間にはトガンの息子のドルジバルが安定王位を継承しており[7]カラ・ホトで発見された『俄蔵黒水城文献』では「朶立只巴太子」「朶立只巴安定王」として名前が記録されている[8]

明朝初期、サリク・ウイグルの地に住む安定王ブヤン・テムルは洪武7年に明朝に使者を派遣し、安定衛の統治者として認められた。ブヤン・テムルはバイダカンの始まる安定王の一族の者であり、安定衛とはバイダカン王家の後身であると考えられている。

バイダカン安定王家

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  1. バイダカン(Baidaqan、拝答寒/Bāīdaghānبایدغان)
  2. 安定王トガンToγan、安定王脱歓/Ṭūghānطوغان)
  3. 安定王ドルジバル(Dorǰibar、安定王朶児只班)
  4. 安定王ブヤン・テムル(Buyan Temür、安定王卜煙帖木児)

脚注

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  1. ^ 『元史』巻7,「[至元七年秋七月]乙卯、賜諸王拝答寒印及海青・金符二」
  2. ^ 『元史』巻7,「[至元七年八月]己巳……諸王拝答寒部曲告饑、命有車馬者徙居黄忽児玉良之地、計口給糧、無車馬者就食粛・沙・甘州」
  3. ^ 杉山2004,307-308頁
  4. ^ 『元史』巻16,「[至元二十七年春正月]己未……章吉寇甘木里、諸王朮伯・拝答寒・亦憐真撃走之」
  5. ^ 杉山2004,306頁。ただ、『元史』宗室世系表では「拝答寒」と「安定王脱歓」は兄弟関係にあると記されており、またトガン(脱歓)という名前を持つ王族は数多くいたため、バイダカンとトガンの父子関係は有力視されているものの確証を欠く状態にある。
  6. ^ 『元史』巻24,「[皇慶二年八月]戊申、封脱歓為安定王、賜金印」
  7. ^ 『元史』巻29,「[泰定二年二月]辛卯、賑安定王朶児只班部軍糧三月」
  8. ^ 杉山2004,306頁

参考文献

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  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年