関長治

日本の江戸時代前期~中期の大名。美作津山藩2代藩主森長継六男(九男とも)で、美作宮川藩初代藩主関長政養子。宮川藩及び備中新見藩初代藩主。従五位下備前守。

関 長治(せき ながはる)は、美作国宮川藩の第2代藩主、のち備中国新見藩の初代藩主。新見藩関家2代。

 
関長治
関長治像
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦3年9月6日1657年10月13日
死没 元文3年8月11日1738年9月24日
戒名 西来院廓聖本然大居士
墓所 岡山県新見市新見の西来寺
官位 従五位下備前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
美作宮川藩主→備中新見藩
氏族 森氏関氏
父母 父:森長継、母:湯浅氏
養父:関長政
兄弟 森忠継森長武森長俊長治森長基森長直森衆利、万姫、鳥居忠則正室、一条冬経室、兼、毛利元次正室、瑞光院、大、松平康雄正室
成瀬正親の娘
養子:長広
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生涯

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明暦3年(1657年)9月6日、美作津山藩の第2代藩主(後に備中西江原藩の初代藩主)・森長継の六男(九男との説もある)として生まれる。寛文9年(1669年)5月、叔父の美作宮川藩主・関長政の養子となり、元禄2年(1689年)に家督を継いだ。元禄10年(1697年)、本家森家の津山藩が5代目襲封予定であった森衆利(長治の弟)の発狂により改易されたため、備中に移封されて新見藩を立藩した。

藩政においては新たな領国における藩政を固めるため、自ら率先して倹約に努め、植林や農業政策、牧畜政策を奨励し、商業政策にも従事して藩政の基礎を固めることに成功した。

享保10年(1725年)3月5日、兄・森長俊の次男・長広を養子として家督を譲り隠居する。元文3年(1738年)8月11日に死去した。享年82。

系譜

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