閔泳煥
閔 泳煥(ミン・ヨンファン、민영환、1861年7月2日 - 1905年11月30日)は、李氏朝鮮の政治家。本貫は驪興閔氏[1]。閔妃の甥にあたり、勢道政治の中心人物として重職を歴任した。
閔 泳煥 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 민영환 |
漢字: | 閔 泳煥 |
発音: | ミン・ヨンファン |
ローマ字: | Min Young-hwan |
人物
編集兵曹判書を務めた閔謙鎬の末子として漢城に生まれる。1878年に科挙の文科に及第、1881年に正三品に昇進、承政院承旨、都承旨などを経て、23歳で兵曹判書となる。1882年の壬午軍乱で父親が殺害され服喪した後は政界に復帰し、1885年に従二品に昇進し、協弁(次席)内務府事、議政府有司堂上、開城府留守などを歴任するとともに、親軍畿沿海防営使、親軍前営使を兼任して軍備にあたった。1885年には従二品に昇進し、翌年まで同族の閔応植とともにロシア帝国に接触し、朝露秘密協定の締結に尽力した。1887年には正二品に昇進し、刑曹・礼曹・兵曹の各判書、督弁(主席)内務府事などを歴任、1891年に従一品に昇進 した。1894年に甲午農民戦争が起きると、『千一策』と題した政策論を著し、諸外国の動きを牽制し、軍備拡充を主張した。
閔氏政権が崩壊すると、一時的に穏退を余儀なくされたが、1895年には、宮内府特進官に任命された。1896年2月の露館播遷後、高宗の命によりロシアへ特命全権公使として派遣され、4月に朝鮮を出発し、太平洋航路でアメリカや西ヨーロッパを経て、5月にロシアに到達した。ニコライ2世の戴冠式に朝鮮を代表して参列し、ロシア政府との間で、顧問、軍事教官招聘に関する交渉に当たり、教官に抜擢されたドミトリ・プチャータ(Dmitrii Putiata)大佐一行を伴って、シベリア経由の陸路で10月に帰国した。12月には英独露仏伊墺の6か国を管轄する駐箚大使に任命され、翌年3月に朝鮮を出発し、上海でメレンドルフや同族の閔泳翊に会った後、インド洋航路でスエズ運河を経由し、オデッサに到達した。再びニコライ2世に謁見し、国書を捧呈した後、西ヨーロッパを経て6月にロンドンに到達した。ヴィクトリア女王の即位60周年式典に朝鮮を代表して参列し、国書を捧呈して7月に帰国の途に就いた。その後も、議政府参政大臣、元帥府会計局総長、宮内府掌礼院卿、内部大臣など政府高官を歴任した。
1905年の第二次日韓協約(乙巳保護条約)の締結に際し、趙秉世らとともに高宗に破約を奏したが聞き入れられず、自決した。後に議政大臣の職位と「忠政公」の諡号を遺贈された。文集に『閔忠政公遺稿』がある。
系譜
編集脚注
編集- ^ “민영환(閔泳煥)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年1月7日閲覧。
参考文献
編集- 「講談社日本人名大辞典」講談社 2001年
- 金素天「韓国史のなかの100人」明石書店 2002年 ISBN 4-7503-1607-5
- 「アジア人物史 9」 集英社 2024年