閔 応植(ミン・ウンシク、: 민응식1844年 - 1903年3月22日)は、李氏朝鮮の政治家。本貫驪興閔氏は性文、は藕堂、諡号は忠文公。

閔応植
各種表記
ハングル 민응식
漢字 '閔應植
発音: ミン・ウンシク
テンプレートを表示

人物

編集

父は吏曹刑曹判書を務めた閔泳愚。1882年の壬午軍乱では王妃閔妃の避難を助けて信任を得た。同年10月に科挙の文科に及第し、1883年に従二品に昇進すると、戸曹参判、都承旨を経て、1884年には平安道観察使となった。1885年に正二品に昇進し、兵曹を除く六曹の判書、協弁(次席)内務府事、督弁(主席)内務府事などを歴任し、1887年には従一品に昇進した。1894年、閔氏による勢道政治が崩壊すると、全羅道古今島流配となったが、1895年に赦免され、宮内府特進官に任命された。

参考文献

編集