長福寺 (美作市)
岡山県美作市の仏教寺院
長福寺(ちょうふくじ)は岡山県美作市真神[1]にある真言宗御室派の寺院。山号は真木山。本尊は十一面観音。詳名は真木山 般若院 長福寺と号する。三重塔は国の重要文化財に指定されており、岡山県下最古の木造建築である。
長福寺 | |
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三重塔(重要文化財) | |
所在地 | 岡山県美作市真神414 |
位置 | 北緯34度55分36.0秒 東経134度9分1.8秒 / 北緯34.926667度 東経134.150500度座標: 北緯34度55分36.0秒 東経134度9分1.8秒 / 北緯34.926667度 東経134.150500度 |
山号 | 真木山(眞木山) |
院号 | 般若院 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 十一面観音(重要文化財) |
創建年 | (伝)天平宝字元年(757年) |
開基 | (伝)鑑真、孝謙天皇(勅願) |
中興年 | 弘安8年(1285年) |
中興 | 円源 |
正式名 | 真木山般若院長福寺 |
札所等 |
美作西国三十三観音霊場第2番 播磨美作七福神(福禄寿) |
文化財 | 三重塔、十一面観音立像、絹本著色不動明王像 1幅、絹本著色両界曼荼羅図 2幅、絹本著色十二天像 12幅(重要文化財) |
法人番号 | 7260005007454 |
沿革
編集寺伝によれば、天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという。『東作誌』のような近世の地誌にも同様の伝承を載せるが、どこまで史実を反映したものかは定かでなく、その後中世までの沿革も明確でない。なお、寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった。
その後は衰退していたが、鎌倉時代の弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した。再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった。天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、南北朝時代の明徳年間(1390年 – 1393年)に完全に真言宗の寺院となった。
江戸時代初期には40坊、中期に25坊、明治維新の際には4か寺となった。明治9年(1876年)2月の火災により奥の院を残し焼亡し、1か寺のみとなった。これが現在の長福寺である。江戸時代後期の文政年間(1818年 – 1829年)頃になると女人禁制も解かれ女性も登山できるようになった。
昭和3年(1928年)に長福寺は山上から現在の地に移転した。山上に残されていた三重塔、真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現なども昭和26年(1951年)に現在地に解体移築された。
文化財
編集- 重要文化財(国指定)
- 三重塔 - 高さ22.07m。棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立されたことがわかる。その後、寛永年間(1624年 - 1643年)、文政6年(1823年)に大修理が行われた記録があり、明治末期にも部分的修理が行われている。大正10年(1921年)4月30日、古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)文化財保護法の施行により重要文化財となる。昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された。昭和55年(1980年)保存修理が完了した。
- 木造十一面観世音菩薩立像 1体 - 寺伝に行基作と伝えられるが、実際は鎌倉時代末期から室町時代の作で、作者は不明である。檜の寄木造り。高さ258cm。明治34年(1901年)8月2日指定。
- 絹本著色不動明王像 1幅 - 縦134cm、横74cm。鎌倉時代中期の作。明治34年(1901年)8月2日指定。
- 絹本著色両界曼荼羅図 2幅 - 縦165cm、横125cm。南北朝時代の作。明治34年(1901年)8月2日指定。
- 絹本著色十二天像 12幅 - 縦110cm、横34cm。南北朝時代、増吽僧正の作と伝えられる。帝釈天、水天、焔摩天、毘沙門天、伊舎那天、風天、羅刹天、火天、梵天、地天、日天、月天の十二天から成る。明治34年(1901年)8月2日指定。
祭礼
編集アクセス
編集脚注
編集参考資料
編集- 『岡山県美作市真神「真木山 長福寺」の略歴と沿革』 現地配付資料