鎌田勝太郎
鎌田 勝太郎[2](かまだ かつたろう[1][3]、諱・正康[4]。号・淡翁、1864年2月29日(元治元年1月22日)[2] - 1942年(昭和17年)3月28日[1])は、戦前日本の実業家、政治家、社会事業家、資産家[5]、醤油醸造家(堺屋)[6]、香川県多額納税者[7][8]、地主[9]。貴族院多額納税者議員(4期)。衆議院議員(当選1回)[1]。従五位勲三等[1]。族籍は香川県平民[7][9][10][11]。
鎌田勝太郎 かまだ かつたろう | |
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生年月日 | 1864年4月5日 |
出生地 | 讃岐国坂出村 |
没年月日 | 1942年3月28日 |
出身校 | 慶應義塾 |
所属政党 | 交友倶楽部[1] |
称号 |
従五位 勲三等瑞宝章 藍綬褒章 |
選挙区 | 香川県第三区 |
当選回数 | 1回 |
当選回数 | 4回(史上最多) |
在任期間 | 1897年 - 1925年 |
坂出塩業の振興につとめ「讃岐坂出塩業の父」とも称される[4]。貴族院政治史上最多の当選回数(4選)の保持者でもあり、貴族院の重鎮としても君臨した。
経歴
編集醤油醸造を業とする家に生まれた。鎌田正平の長男[2][7][11]。2歳[12]、あるいは3歳の時[13]、父親が死亡し、祖父母と母親の手で育てられた[13]。1876年8月、家督を相続した[10]。
12歳で高松の三野盤渓の塾に塾生として住込み、勉学に励む[13]。1878年(明治11年)[12]、14歳で上京して慶應義塾に内弟子として入門、2年間教えを受けた[13][注 1]。在学中に北海道を見聞して帰郷したのちに「快航丸」という船を購入し、「坂出 - 函館間」の海運業を興す[12]。
醤油醸造を業とし、家号を堺屋と呼ぶ[3]。若くして手腕を発揮。醤油醸造によって得た利益を社会に還元することを考え、鎌田育英会をおこして慈善育英事業に従事。育英や社会事業に尽くした[4]。
塩業界の富豪としては、宇多津塩田株式会社を資本金三万円で設立し、岡山の野崎武吉郎とも並んで称され、坂出塩産合資会社では、地主による会社として塩・石炭の販売を行い、清への貿易を早い段階で始めた。銀行家としては、第百十四国立銀行の大株主でもある鎌田は、銀行経営に深い関心を寄せ、朝鮮実業銀行社長となり製塩業を対象とする銀行経営に乗り出した。また、塩消費税問題に対処するため大日本塩業同志会を設立。
讃岐紡績[1]、宇多津塩田、朝鮮実業、鎌田産業各社長[6][10]、坂出銀行頭取[1]、讃岐鉄道、高松銀行各取締役[1]、讃岐信託相談役[6][14]、琴平急行電鉄顧問[14]、香川県教育会理事長[6][14]、鎌田共済会会頭[6][14]などをつとめた。
貴族院政治家としては、曽我祐準、谷干城に近い懇話会系の議員として出発し、平山成信・江木千之らの茶話会に対抗した。その後、1923年(大正13年)の貴族院第46議会に質問演説で貴族院改革の必要を強調。近衛文麿らが所属する土曜会に所属したがのちに、朝日倶楽部を経て政友会系の交友倶楽部に移った。
人物
編集年表
編集讃岐国坂出村(現・香川県坂出市)生まれ。鎌田家は代々、香川県綾歌郡坂出町で醬油製造業を営んでいた。
- 1878年(明治11年) - 上京して慶應義塾に入学。
- 1883年(明治16年) - 塩産合資会社社長。
- 1886年(明治19年) - 私立済々学館長。
- 1892年(明治25年) - 香川県会議長。
- 1893年(明治26年) - 坂出銀行頭取。
- 1894年(明治27年) - 第4回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。大日本塩業同盟会設立。
- 1896年(明治29年) - 讃岐鉄道取締役。
- 1897年(明治30年) - 讃岐紡績会社社長(大正7年倉敷紡績会社に合併)
- 9月 - 貴族院多額納税者議員当選。同月29日に就任[15]。
- 1904年(明治37年)10月13日 - 貴族院多額納税者議員辞任[16]。
- 1905年(明治38年) - 朝鮮実業株式会社設立。
- 1月 - 貴族院多額納税者議員当選。同月24日に就任[17]。
- 1932年(大正7年) - 財団法人鎌田共済会設立。
- 1925年(大正14年)9月 - 貴族院多額納税者議員辞任。
- 1942年(昭和17年) - 死去。79歳。
栄典
編集家族・親族
編集- 鎌田家
『淡翁鎌田勝太郎伝』の鎌田家の系譜には「その祖先に正興と称して保元の昔、崇徳上皇が讃岐に遷された時京師より上皇に従って来て鼓ケ岡に奉仕し、後に鵜足郡川津村鎌田原に移り住み、一池を築いて鎌田池と名づけた人がある。二十余世を経て兵部と云う人が慶安年中坂出村に移る(慶安4年11月朔日没)。1789年(寛政元年)、鎌田醤油創業[18]。兵部より七代初代宇平太、八代仲蔵(二代目宇平太正方)の世になり家産が大いに富む。」とある[19]。
- 祖父・仲蔵(二代目宇平太正方)[19]
- 父・正平(香川平民)[10][11]
- 妻・ヨシエ(岡山、中原俊輔の長女)[10]
- 養子・憲夫(1889年 - ?、香川、鎌田大三郎の四男、鎌田産業、朝鮮実業各取締役)[14]
- 養子・榮(1900年 - ?、分家[14]、広島、赤松又四郎の四男[7]、坂出市長)
- 妻・トヨ(1900年 - ?、香川、岡部忠次郎の三女)[7]
- 男(生母は東京の真壁サタ、1927年 - ?)[14]
- 孫[10]
- 親戚
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h 『議会制度七十年史 第1』188頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月6日閲覧。
- ^ a b c 『大正人名辞典』698 - 699頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月14日閲覧。
- ^ a b 『日本現今人名辞典』か72頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月3日閲覧。
- ^ a b c 鎌田 勝太郎とはコトバンク。2017年10月26日閲覧。
- ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第13版 上』カ123頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月25日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第7版』か130頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月24日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第31版』付録 全国多額納税者 香川県66頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月3日閲覧。
- ^ a b 『大日本長者名鑑』四国6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』か90頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月26日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第5版』か124頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月14日閲覧。
- ^ a b c d 『日本財閥経営史 地方財閥』220-223頁。
- ^ a b c d 讃岐ものしり事典 鎌田勝太郎(淡翁)について香川県立図書館公式サイト。2020年4月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第12版 上』カ150-152頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月8日閲覧。
- ^ 『官報』第6377号、明治37年9月30日。
- ^ 『官報』第6389号、明治37年10月14日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 会社概要、鎌田醤油公式サイト。
- ^ a b 木村文昭『醤油風土記 香川』第70巻第3号、178頁。
- ^ 『人事興信録 第14版 上』キ53頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年8月18日閲覧。
参考文献
編集- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 『大日本長者名鑑』貞文舍、1927年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。
- 森川英正『日本財閥経営史 地方財閥』日本経済新聞社、1985年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
関連項目
編集外部リンク
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