鍋島茂真
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鍋島 茂真(なべしま しげまさ)は、江戸時代後期の肥前国佐賀藩の執政。須古鍋島家13代当主。弟の10代藩主・鍋島直正を25年にわたり補佐した。
鍋島茂真像(鍋島報效会蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化10年11月26日(1813年12月18日) |
死没 | 慶応2年4月19日(1866年6月2日) |
改名 | 長之進(幼名)、茂真 |
別名 | 中務、安昌、安房(通称) |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 鍋島斉直、直正 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 鍋島氏、須古鍋島家 |
父母 |
鍋島斉直 鍋島茂臣 |
兄弟 |
神代賢在、益子、直孝、久世通熙室、 竈姫、直永、茂真、直正、茂快、為、區、光、茂元、於民、直賢、文武ら |
子 | 茂朝 |
略歴
編集文化10年(1813年)、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の十四男として誕生。幼名は長之進。長じて中務、安昌とも呼ばれた。
文政5年(1822年)、須古鍋島家12代当主・鍋島茂臣の養子に内定し、文政8年(1825年)に佐賀城東御門元鷹屋屋敷を拝領する。特に佐賀藩主の花杏葉紋使用を許可され、同年に家督を継ぐ。
天保元年(1830年)9月に請役差次に就任する。天保6年(1835年)5月の佐賀城二の丸焼失の後、請役所当役(執政)となる。また佐賀藩の藩校弘道館の学館頭人となり、藩校教育に力を入れた。長崎の台場を増築し、大砲の鋳造を行った。嘉永2年(1849年)9月に長年の請役としての功績に対して、代々花杏葉紋を拝領した。安政6年(1859年)、家臣の不祥事もあって執政の職から退いた。
脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.29
出典
編集- 日本人物大辞典(講談社)