鍋島直紀
肥前蓮池藩9代藩主(最後)。従五位下、朝散大夫、甲斐守。鍋島直与の長男
鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、江戸時代末期の大名、明治前期の華族。
鍋島直紀像(佐賀県立博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 文政9年5月25日(1826年6月30日) |
死没 | 明治24年(1891年)2月23日 |
別名 | 統丸・統太郎(幼名)、直紀 |
墓所 | 青山霊園 1-イ-5-15 |
官位 | 正五位下、朝散大夫、甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府→明治政府 |
藩 | 肥前蓮池藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島直与、母:二条治孝の娘・千万 |
兄弟 | 直紀、石井忠躬、藤珍彦、他 |
妻 |
正室:鍋島直堯の娘 継室:鍋島直永の娘・謁女 |
子 |
松平乗長、輝子(鍋島直柔正室)、篤子(阿部正桓継室)、親(鍋島熊太郎室のち大久保教正正室)、常子(井伊直憲継室)、孝子(本庄宗義継室)、 養子:直柔 |
生涯
編集文政9年(1826年)5月25日、第8代藩主・鍋島直与の長男として蓮池館で生まれる。幼少時は藩校・成章館で学んだ。天保14年(1843年)5月以降は、成章館教授・満野荷州(順、代右衛門)が侍講として教育にあたった。弘化2年(1845年)7月28日、父の隠居により家督を継ぐが、元治元年(1864年)までは隠居した父が実権を握っていた。
安政元年(1854年)より幕命で5年間の公務猶予が許された代わりに、長崎防備の強化を命じられ、そのための出費で財政がさらに悪化した。このため、借金が一気に増大している。元治元年(1864年)の第1次長州征伐では幕府方として1000人の兵を出し、父の命令で京都にも出兵している。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争では新政府に恭順して、弟石井忠躬を名代に任じ出羽秋田藩に出兵した。明治2年(1869年)の版籍奉還で蓮池藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治4年11月5日(1871年12月16日)に隠居し、家督は養子の直柔が継承した[1]。
明治24年(1891年)2月23日、東京麻布邸で死去した。享年66。
栄典
編集系譜
編集父母
正室、継室
子女
養子
脚注
編集- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 271.
- ^ 『官報』第533号「賞勲叙任」1885年4月15日。
- ^ 松平乗命の養子。
参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
当主 | ||
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先代 鍋島直与 |
蓮池藩鍋島家 1845年 - 1871年 |
次代 鍋島直柔 |