鈴木悦郎
鈴木 悦郎(すずき えつろう、1924年(大正13年)1月20日 - 2013年(平成25年)8月5日)は、日本の画家、イラストレーター。本名は鈴木一郎。
略歴
編集1924年(大正13年)、東京浅草に父清五郎、母かねの6人兄弟の長男として生まれる[1]。
1939年(昭和14年)、下谷商業学校中退後、絵の仕事がしたくて中原淳一を訪ねたことがきっかけとなり、麹町にあった淳一の店「ヒマワリ」で店番を1年ほどして過ごす[1]。
1941年(昭和16年)、父が東宝舞台で大道具を担当していた縁で東宝舞台に入社。東京宝塚劇場の舞台背景の仕事につく。翌年からは太平洋戦争の関係で徴用され、蒲田で戦車の部品などを作る[1]。
1944年(昭和19年)、陸軍に入隊。その後中国で捕虜になるが、余興のための舞台装置や衣装作成などに関わる。1946年(昭和21年)5月に復員後は東京宝塚劇場(当時は接収されアーニー・パイル劇場)の舞台背景を描く仕事に復帰する[1]。
1946年(昭和21年)、雑誌『少女の友』で鈴木越郎として初めて挿絵を描く。のち『ソレイユ』、『ひまわり』にも挿絵を描く。この頃は、「一郎」または「越郎」の名前で描いていた。挿絵の仕事に本格的に取り組むため翌年2月、東宝舞台を辞職する[1]。
1948年(昭和23年)、松本かつぢの紹介で少女雑誌『白鳥』『青空』『少女世界』にもカットを描く。さらに「鈴木悦郎」のペンネームを付けてもらう[1]。
1950年(昭和26年)、猪熊弦一郎絵画研究所で絵画の基礎を学ぶ。それまでは独学であった。のち新制作派協会展に出品して入選。新制作派協会の仲間であった三岸節子、脇田和とも縁ができる[1]。
1952年(昭和27年)、中村メイコの初の著書『小さな花の背のび』(ひまわり社)の装幀を手がける[2]。この頃、『ぎんのすず』『チャイルドブック』といった児童雑誌、幼児、小学生向けの絵本、イラストなどの仕事が増える。また、文具、雑貨などのデザインも多く手がけるようになる。また、バレエの絵を描くためにバレエ団でレッスンを受け、その後にバレエ公演衣装や美術、ポスターなども多く手がけるようになった[1]。
1957年(昭和32年)1月、寺山修司からの強い要望を受け、処女作品集『われに五月を』(作品社)の装幀を手がける[3][1]。
1960年(昭和35年)、『家庭画報』『主婦と生活』『主婦の友』『平凡』などの雑誌のイラストを手がける[1]。
1966年(昭和41年)、東京を離れて神奈川県大磯町に転居する。1974年(昭和49年)には神奈川県湯河原町に転居する[1]。
1975年(昭和50年)、フランスのパリにあった水野正夫のアトリエに間借りして、1年間滞在。美術館やバレエ、オペラ鑑賞などに費やす[1]。
1977年(昭和52年)、神奈川県真鶴町に転居。終の棲家となる。1979年(昭和54年)1月、膵臓壊死と診断され真鶴町の診療所に入院、半年後に回復して退院する[1]。
1980年(昭和56年)6月、東京銀座の資生堂ギャラリーで第2回の個展を開催。この頃から挿絵から油彩画に活動を移していく[1]。
1988年(昭和63年)、埼玉県の「あるぴいの銀花ギャラリー」で個展を開催。以降も6月と12月に「鈴木 悦郎 絵展楽」が毎年開催されることとなる[1]。
2013年(平成25年)8月5日、死去[4]。
人物
編集参考文献
編集- 野崎泉編 『鈴木悦郎 詩と音楽の童画家』 河出書房新社、2012年、ISBN 9784309727936
- 内田静枝編 『松本かつぢ 昭和の可愛い!をつくったイラストレーター』 河出書房新社、2006年、ISBN 9784309727516
外部リンク
編集- 鈴木悦郎先生コレクション - 公認ファンサイト。トップページにある「ようこそ。そしておかえりなさい」のフレーズは『鈴木悦郎 詩と音楽の童画家』の序文にも使われている[6]。