脇田和
1908-2005, 洋画家
脇田 和(わきた かず、1908年(明治41年)6月7日[1] - 2005年(平成17年)11月27日[1])は、昭和期に活躍した日本の男性洋画家。新制作協会創立会員。東京藝術大学名誉教授。実子は洋画家の脇田愛二郎。
経歴
編集1908年、東京都港区青山に生まれる[1]。1923年、姉夫婦の仕事の都合で、旧制青山学院中学部(現青山学院中等部・高等部)を中退し[1]、1925年ベルリン国立美術学校に入学[1]。人体デッサン、遠近法、木口版画、七宝等絵画に関するさまざまな技法を学ぶ。1930年9月、卒業時に美術学校より金メダルを授与される[1]。同年、帰国[1]。
1932年、太平洋画会に入選し[1]、帝展にも入選する[1]。1935年、二部会(帝国美術院改革に反対する会員が立ち上げた組織)の展覧会で昭和洋画奨励賞を受賞[1][2]。1936年、新制作派協会(現在の新制作協会)の結成に加わり、以後同協会展に出品を重ねる[1]。戦中は軍部の記録映画作成や報道部として活動し[1]、1945年に相模湖付近へ集団疎開した際には芸術家村を構想した[1]。
1955年、日本国際美術展で最優秀賞[1]。1956年、毎日美術賞とグッケンハイム国際美術展国内賞を受賞[1]。1964年、東京芸術大学助教授[1]、1968年同教授[1]。1970年に同大学を退官[1]。1991年、軽井沢に脇田美術館を開館して館長となる[1]。勲四等旭日小綬章[要出典]。1998年、文化功労者[1]。1999年東京藝術大学名誉教授[1]。
2005年11月27日、心筋梗塞のため死去[1]。