鈴木信太郎 (洋画家)
日本の洋画家
人物
編集東京府八王子生まれ[1]。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する[1]。
1934年(昭和9年)出品した第二十一回二科展で推奨に選出[2]されたことなどを契機に、 1936年(昭和11年)、二科会に新会員として迎えられる[3]。1955年(昭和30年)、二科会を退会して一陽会を結成し中心的存在として活躍する。1960年(昭和35年)、日本芸術院賞受賞、1969年(昭和44年)、日本芸術院会員、1988年(昭和63年)、文化功労者。
エピソード
編集略歴
編集- 1895年(明治28年)8月16日、鈴木金蔵、テルの次男として誕生。祖父の代まで甲州街道の小仏関所で本陣を営み、父の代で八王子市に移り、生糸の仲買などを営んだ。幼少期の病で左半身が不自由となる。
- 1906年(明治39年)、白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。
- 1913年(大正2年)、東京府立織染学校(現:東京都立八王子工業高等学校)に入学。織物図案を2年学ぶ。
- 1924年(大正13年)、第11回二科展に入選。
- 1950年(昭和25年)、武蔵野美術大学教授[5]。
- 1955年(昭和30年)、多摩美術大学教授[5]。二科会を退会。高岡徳太郎らと一陽会を結成。
- 1960年(昭和35年)、日本芸術院賞受賞。
- 1969年(昭和44年)、日本芸術院会員。勲三等瑞宝章受章。
- 1988年(昭和63年)、文化功労者。
- 1989年(平成元年)5月13日、日本赤十字社医療センターにて死去。
著書
編集脚注
編集- ^ a b 親密な空間、色彩の旅人 鈴木信太郎展 笠間日動美術館 2024年8月15日閲覧。
- ^ 鈴木信太郎、向井潤吉らが推奨に『東京朝日新聞』昭和9年9月6日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p499-500 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 向井潤吉ら七人が新会員に決まる『東京朝日新聞』昭和11年9月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p531 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 長崎市歴史民俗資料館 (10 June 2015). "歴史民俗資料館だよりNo109" (PDF). 長崎市. p. 2. 2018年12月25日閲覧。
- ^ a b 鈴木信太郎 :: 東文研アーカイブデータベース