金 蘭斎(こん らんさい[1]、こん の らんさい[2]慶安3年〈1650年〉 - 享保16年〈1731年12月24日[3][注釈 1])は、江戸時代中期の儒者[3]老荘思想家。主著に『老子経国字解』。

画像外部リンク
近世畸人伝(正・続)”. 国際日本文化研究センター. 2024年7月18日閲覧。

名は「徳隣」「玄固」、字は「江長」「三允」、通称は「忠祐」、号に「蘭斎」「洛山逸民」など[1]

人物

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出羽国羽後国久保田藩(現・秋田県藩医金三室[1]小鴨三室[2][5])の子として生まれる。「金」という姓は、祖先が同国金浦の人だったことに由来する[3][4]

17歳のとき、京都伊藤仁斎らに学ぶ[3][5]江戸入江南溟にも学んだ[6][7]。故郷での仕官を厭い、京都麩屋町で老荘を講義して清貧に暮らす[3][5]。80歳ごろ水腫により逝去[5]五条本覚寺伊藤東涯書の墓碑がある[3][5][2]

近世畸人伝』に伝があり、「真の老荘者」とされ、肖像画(後ろ姿)や以下の逸話が載っている[8]

  • 蘭斎は本を持っておらず、受講生が本を買い与えても米に替えてしまった[9]
  • 受講生から贈られた、背に「金蘭斎」と大書された着物を常用していた[9]
  • 講義中に代神楽がやってくると、講義を放棄して童子たちと一緒に追いかけていった[9]

他にも多くの逸話が伝わる[10]

著作・思想

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現存著作に『老子経国字解』と詩文、散佚著作に『退隠草』『異学篇』、同名別人の著作に『教訓春日和』がある[11]

『老子経国字解』は『老子』の和文注釈書であり、江戸時代の老荘流行の一例とされる[12]宝暦11年(1761年)旧刻、文化3年(1806年)再版[7]。東涯門人の高志泉溟の序がある[7]。内容は、林希逸『老子鬳齋口義』に依拠しつつ[13][12]俚諺を交えた平易な解説[14]、「谷神」の重視[15]、老荘一本説[13]などを特徴とする。仁斎の古義学の実践的学風を継承しているとも言われる[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ または1652年/1653年 - 1731年[4]、1653年 - 1732年[1]

出典

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  1. ^ a b c d 講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『金蘭斎』 - コトバンク
  2. ^ a b c 中村 1982, p. 233.
  3. ^ a b c d e f 森 1989, p. 505f.
  4. ^ a b 高瀬 1979, p. 1136.
  5. ^ a b c d e 高瀬 1979, p. 1136f.
  6. ^ 森 1989, p. 90.
  7. ^ a b c 高瀬 1979, p. 1139.
  8. ^ 近世畸人伝(正・続)”. 国際日本文化研究センター. 2024年7月18日閲覧。
  9. ^ a b c 角山祥道. “週刊東洋文庫1000:『近世畸人伝・続近世畸人伝』(伴蒿蹊著、三熊花顛挿画、宗政五十緒校注)”. JapanKnowledge. 2024年7月31日閲覧。
  10. ^ 中村 1982, p. 235-239.
  11. ^ 中村 1982, p. 239-242.
  12. ^ a b 武内 1978, p. 232.
  13. ^ a b 中村 1982, p. 242.
  14. ^ 高瀬 1979, p. 1149.
  15. ^ 高瀬 1979, p. 1139;1151.
  16. ^ 中村 1982, p. 244f.

参考文献

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  • 高瀬允 著「金蘭斎の『老子経国字解』について」、加賀博士退官記念論集刊行会 編『加賀博士退官記念中国文史哲学論集』講談社、1979年https://dl.ndl.go.jp/pid/12217317/1/577 
  • 武内義雄日本における老荘学」『武内義雄全集 第6巻 諸子篇1』角川書店、1978年(原著1937年)https://dl.ndl.go.jp/pid/12213729/1/118 
  • 中村幸彦老荘思想の実践者 金蘭斎」『中村幸彦著述集 第11巻 漢学者記事』中央公論社、1982年https://dl.ndl.go.jp/pid/12455845/1/120 
  • 森銑三「金蘭斎」『森銑三著作集 第9巻 人物篇9』中央公論新社、1989年。ISBN 9784124027792