金原明善
金原 明善(きんぱら めいぜん、天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)は、明治時代の実業家。静岡県浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。
きんぱら めいぜん 金原 明善 | |
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生誕 |
金原弥一郎 天保3年6月7日(1832年7月4日) 遠江国長上郡安間村(現・静岡県浜松市中央区安間町) |
死没 | 大正12年(1923年)1月14日)(満92歳没) |
記念碑 | 金原明善記念碑(旧浜名用水取水口) |
国籍 | 日本 |
職業 | 治水・植林事業者、銀行家 |
著名な実績 | 天竜川流域の治水・植林事業 |
親 | 金原範忠 |
補足 | |
勲四等瑞宝章受章者。 |
経歴
編集前史
編集1832年(天保3年)、遠江国長上郡安間村(現・静岡県浜松市中央区安間町)に生まれた。幼名は弥一郎。父は範忠、母は志賀だった。生家は酒造業と質屋を併営する大地主であり、特に父である範忠は理財の才に優れていた[1]。範忠は夜明け前にその日の天気を見定めて仕事を用意し、夜は家事に励んで最後に床に就く人であった[1]。1848年(嘉永元年)には禄高7千石を構える旗本松平家の代官に取り立てられている[1]。また、母である志賀は1849年(嘉永2年)に37 歳の若さで亡くなる。金原家の行く末を案じた志賀は、明善の継母と妻について遺言を残している。範忠と明善は志賀の遺言に従って範忠は志賀の従姉妹にあたる沢と再婚し、明善は 24 歳の時に継母・沢の連れ子である玉城(旧姓・渡辺)と結婚している[1]。
明善は結婚とともに父から名主職を引き継ぎ、1857 年(安政4年)には主家である旗本松平家が財政再建策を協議するため全国から代官を招集したのに応じて父の名代として江戸へ赴く[1]。集められた代官たちの中にはら夜ごと酒色に耽る者もいた一方で、明善はこうした誘惑に惑わされることなく、主家の債務整理に精励し余暇を儒学の勉強に充てた[1]。
天竜川の治水
編集1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は1850年(嘉永3年)から1868年(慶応4年)にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。天竜川沿岸に住んでいる人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望をあたえた。
早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に苗字帯刀を許される名誉を得た。
翌1869年(明治2年)に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。1874年(明治7年)には天竜川通堤防会社を設立。
1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まり、主に堤防の補強・改修をはじめ以下の5点を実施した。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。
工学技術者の必要性から、1880年、親交のあった工部大学校校長大鳥圭介に頼み込んで、土木学科卒業生の小林八郎を治河協力社に迎えることに成功する。工部大学校卒業生は工部省内各部局への奉職規則があったにもかかわらず、大鳥はそれ無視してまでも小林を送り出した。小林には十分な治水水利の知識と経験がなかっため、明善から3年間の欧州留学の機会が与えられた。
しかし、流域の住民の利害争いが原因で1883年(明治16年)天竜川通堤防会社は、幕を閉じた。以後、明善の計画を雛形にして国・県が天竜川の治水事業を引き継いで行っていった。そのスタッフには、天竜川通堤防会社や自宅で開校した水利学校の人材も多数残った。
天竜川流域の植林事業
編集明善は、下流域での堤防による治水が軌道にのると、次に天竜川流域の山間部の植林事業にのりだした。当時、天竜川の山間部は荒れていて大雨が降ると大量の水と土砂が一気に川に流れてしまう状態であった。明善は植林による治水を考えていた。 1885年(明治18年)より植林を始める。天竜川上流の官有地759haに292万本のスギ、ヒノキの苗木を自らの費用で献植。次いで1200haの植栽を行った[2]。これが、後に天竜杉となり浜松市天竜区(旧天竜市・龍山町・水窪町・佐久間町)の林業発展のきっかけとなった。
疏水事業
編集明善は、1899年第三番目の事業として疏水事業を計画した。これは、水量豊富な天竜川を二つの方向に分水。一つは三方原台地に通して堀留運河(現・堀留川)に連絡、そして舞阪町に至らせる。そして、もう一つは都田川から浜名湖に通ずる様に計画された。目的は、以下の3点であった。
事業計画の為に測量を行い、用水路の概要が出来た。この実測と計画には数年の歳月と多額の資金を費やした。その資金は明善自身が負担した。しかし、県では「現在の河工技術では実現の見込みなし。」とされ計画は不採用となった。しかしながら、この計画は近代における天竜川利水の第一歩となった。この時に計画した材木の運輸は、後に天竜運輸会社(現・株式会社丸運)設立のきっかけになった。
出所者の保護事業
編集1880年(明治13年)、当時政治犯として入獄していた川村矯一郎から監獄の窮状を聞いたことによって、出所者の保護を目的に勧善会を組織する[3]。1888年(明治21年)には、静岡監獄の副典獄(副刑務所長)となった川村によって勧善会を社団法人としての静岡県出獄人保護会社に改組し、日本で最初に出所者の保護事業に着手した[3]。この会社の設立を契機として、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派等の宗派や僧侶やキリスト教徒の一部の個人によって各地に釈放者保護団体が設置されるようになり、現在の保護司制度の原点となったとされる[4]。なお、静岡県出獄人保護会社は、後に組織を改めて財団法人としての「静岡県勧善会」となり、今も更生保護事業を進めている。
北海道開拓
編集明善の知人で、後に静岡県知事となった小野田元熈(オノダモトヒロ)なる人物がいた。その小野田元熈の旧友に丹羽五郎がいた。丹羽五郎は会津藩士族で明治初期に警察官になり、後に東京神田和泉橋警察署長になったが幕藩出身者であるがゆえに苦悩があった。やがて、北海道に新天地の開拓を夢見るようになった。そして、実地調査を行い綿密な開拓計画をたてる。
丹羽五郎は小野田元熈の紹介で明善と面会した。そして、北海道開拓の意志を明善に話した。丹波五郎の熱意に心打たれた明善は、丹波五郎に無抵当無利子で出資を快諾した。丹羽五郎はその出資金を元に、渡道。北海道瀬棚郡目名地区(現・北海道瀬棚郡今金町鈴岡)に農場の開拓を開始した。その農場は金原農場とよばれた。当時、北海道の開拓は挫折が多く当時の北海道長官北垣国道は苦労していた。明善は開拓事業には直接携わらなかったが、幾度も渡道して農場を巡回慰安・激励した。
事業・経営
編集明善の事業経営の基本方針は
明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という金の活用法を実践した事業家でもある。
余業
編集明善の余業は、岐阜県の行脚から始まった。濃尾地震以来荒廃した被災地区の復興に協力した。また、1906年(明治39年)には、広島県知事・山田春三の招きで、植林思想普及および実践促進のために広島県に出かけた。
史跡
編集静岡県浜松市東区安間町には金原の功績を顕彰する金原明善翁生家・記念館がある。
金原を支えた水野定治(1885〜1966年)によって、岐阜県本巣市根尾松田初鹿谷(はじかだに)に金原を顕彰する石碑が建立された。2017年(平成29年)12月にこの石碑が発見された[5]。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d e f 「大原孫三郎と金原明善」法政大学、2019年9月29日閲覧
- ^ 島田錦蔵「きんばら めいぜん 金原明善」『新版 林業百科事典』第2版第5刷 p162 日本林業技術協会 1984年(昭和59年)発行
- ^ a b 出獄人保護事業-【浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ】(浜松市史 三 近代編 第二章 近代浜松の基礎 第二節 殖産興業と地域の開発 第三項 金原明善と治山治水 その他の事業 2019年9月29日 閲覧
- ^ 法務省:更生保護の歴史 2019年9月29日 閲覧
- ^ 「本巣『植林の父』に隠れた名補佐 本紙報道で子孫がゆかりの石碑へ」『中日新聞』2022年4月27日
- ^ 『官報』第1484号「叙任及辞令」1888年6月12日。
- ^ 『官報』第658号「叙任及辞令」1914年10月9日。
- ^ 『官報』第1484号「彙報 - 褒章」1888年6月12日。
- ^ 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
- ^ 『官報』第3135号「彙報 - 褒章」1923年1月16日。