野坂龍
野坂 龍(のさか りょう、1896年(明治29年)9月28日 - 1971年(昭和46年)8月10日)は、日本の社会運動家。夫は日本共産党議長を務めた野坂参三[1][2]。
経歴
編集東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)卒業。1919年、幼なじみの野坂参三[3]と結婚。日本労働総同盟(総同盟)婦人部で活動し、1923年に日本共産党に入党。産業労働調査所で実務を担当。
1931年、参三とともにソビエト連邦に渡り、モスクワ放送局に勤務。東方勤労者共産大学に在籍。
1947年1月16日帰国[4]。のち党中央委員・婦人部長となった[5]。1947年の第23回衆議院議員総選挙において兵庫1区から共産党公認で立候補したが落選した[6]。1950年6月6日、連合国軍最高司令官総司令部により公職追放[7]。1955年10月29日、婦人民主クラブ第68回中央委員会において、党の「五〇年問題」で自己批判[4]。1960年3月8日、国際婦人デー50周年記念中央集会で、市川房枝・山川菊栄とともに運動史を語った[4]。
家族
編集- 父・葛野作次郎(1862年生) ‐神戸の海運、材木商。 宮下惣左衛門の次男として生まれ、葛野家の養子となる[8]。生家の宮下家は江戸時代以来の質屋「林家」であり、幕末以降は年寄役、戸長、米穀仲買商を営んだ[9]。作次郎は明治中頃より義兄の宮下治之介と海運業を始め、1917年には治之介らと神戸で盛航合資会社を設立し代表となり、その後材木業に転じた[10][9]。
- 夫・野坂参三
- 姉・つる(1885年生) ‐ 作次郎の長女。入婿の葛野友槌は野坂参三の実兄で、材木商、神戸モロゾフ製菓創業者。長男の葛野友太郎はモロゾフの社長。
- 姉・信(1892年生) ‐ 作次郎の三女(四女とも)。内務官僚の次田大三郎の妻[11]。病気により早世。
参考文献
編集- 田中真人『一九三〇年代日本共産党史論』三一書房、1994年6月、241頁。
- 広井暢子「野坂竜—夫とともに歩んだ波乱の人生」『女性革命家たちの生涯』新日本出版社、1989年。 NCID BN03457686。
- 増山太助「野坂参三と野坂竜—「偉大な革命家」にかしずく「貞淑な日本婦人」」『戦後期左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、51-53頁。ISBN 4-8068-0444-4。 NCID BA47949518。全国書誌番号:20183946。 『労働運動研究』の連載「戦後運動史外伝・人物群像」 (1995年1月号-1999年3月号) に加筆訂正。
- 朝日新聞選挙本部『朝日選挙大観』朝日新聞社出版局、1997年、527頁。
脚注
編集- ^ 広井, 暢子「野坂竜—夫とともに歩んだ波乱の人生」『女性革命家たちの生涯』新日本出版社、1989年 。
- ^ 増山 2000, pp. 51–53.
- ^ a b 増山太助『戦後期左翼人士群像』柘植書房新社、2000年、51-53頁。ISBN 4-8068-0444-4。全国書誌番号:20183946。『労働運動研究』の連載「戦後運動史外伝・人物群像」 (1995年1月号-1999年3月号) に加筆訂正。
- ^ a b c 大原クロニカ 『社会・労働運動大年表』データベース
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “野坂竜(のさか りょう)とは | デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説”. コトバンク. 2020年1月3日閲覧。
- ^ 『朝日選挙大観』527頁。
- ^ “反共宣伝の激化、全中央委員の公職追放”. 第1部 労働者状態 | 第3編 労働者・農民の組織状況. 日本労働年鑑 第24集 1952年版 — The Labour Year Book of Japan 1952. 時事通信社. (2000年6月1日公開開始). pp. 74-86
- ^ 『人事興信録 5版』1918「葛野作次郎」
- ^ a b 『実録野坂参三: 共産主義運動“スパイ秘史”』近現代史研究会、マルジュ社, 1997、p23
- ^ 官報 1917年01月26日
- ^ 田中 1994, p. 241.
外部リンク
編集- 藤井一行 「野坂竜の逮捕をめぐって」 - ウェイバックマシン(2013年10月29日アーカイブ分)