郷錦廣次

昭和時代の大相撲力士

郷錦 廣次(さとにしき ひろじ、1916年9月20日 - 1994年2月21日[1])は、秋田県南秋田郡五城目町出身で出羽海部屋武隈部屋に所属した元大相撲力士。本名は原田 広次(はらだ ひろじ)。最高位は東十両14枚目。読売ジャイアンツの選手だった原田治明の父。得意技は右四つ、寄り。

経歴

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1935年1月場所、「原田」の四股名で初土俵を踏む。元両國の武隈が部屋を出羽海部屋から独立した際に移籍した。幕下時代に召集され、中国各地を転戦。1941年1月に復帰した。この場所6勝2敗で翌場所の十両昇進を決めた。新十両の場所は3勝12敗の成績に終わり、十両の地位を1場所で明け渡した。その後、太平洋戦争の勃発により、兵隊にいた経験を買われて軍事教練の教官を務めた。ほか、相撲協会勤労報国隊隊長、特設防護団団長に就任した[2]1945年3月10日東京大空襲では当直で国技館の協会事務所にいたが[2]、特設防護団団長として各部屋から国技館に駆け付けた部下(この中には後の國登鳴門海などがいた)を指揮し[3]天皇賜杯が入っている金庫に水をかけ、火の手から守った[3]。この年の11月場所限りで廃業した。廃業後は会社を経営する傍ら、大田区で相撲道場を開き、東京都のアマチュア相撲の役員を務めた。1994年2月21日に死去。

主な成績

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  • 通算成績:67勝68敗15休 勝率.496
  • 十両成績:3勝12敗 勝率.200
  • 現役在位:22場所
  • 十両在位:1場所

場所別成績

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郷錦 廣次
春場所 夏場所 秋場所
1935年
(昭和10年)
(前相撲) 東序ノ口6枚目
3–3 
x
1936年
(昭和11年)
西序二段21枚目
3–3 
東序二段9枚目
4–2 
x
1937年
(昭和12年)
東三段目20枚目
4–2 
東三段目筆頭
5–2 
x
1938年
(昭和13年)
東幕下22枚目
7–6 
東幕下16枚目
5–2 
x
1939年
(昭和14年)
東幕下4枚目
3–4 
東幕下9枚目
 
x
1940年
(昭和15年)
東幕下9枚目
 
西幕下
 
x
1941年
(昭和16年)
東幕下8枚目
6–2 
東十両14枚目
3–12 
x
1942年
(昭和17年)
西幕下7枚目
3–5 
東幕下15枚目
5–3 
x
1943年
(昭和18年)
西幕下6枚目
3–4 
東幕下17枚目
2–6 
x
1944年
(昭和19年)
東幕下35枚目
6–2 
西幕下10枚目
1–4 
西幕下20枚目
3–2 
1945年
(昭和20年)
x 西幕下7枚目
1–4 
西幕下15枚目
引退
0–0–5
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴

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  • 原田 広治(はらだ ひろじ)1935年1月場所 - 1937年1月場所
  • 郷錦(さとにしき)1937年5月場所 - 1942年1月場所
  • 轟山(とどろきやま)1942年5月場所 - 1943年1月場所
  • 郷錦 廣次(さとにしき ひろじ)1943年5月場所 - 1945年11月場所

参考文献

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  • 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年
  • 『VANVAN相撲界』1987年9月号 石井代蔵『豪傑伝』

出典

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  1. ^ 相撲人名鑑(郷錦 廣次)
  2. ^ a b 『VANVAN相撲界』1987年9月号 87頁
  3. ^ a b 『VANVAN相撲界』1987年9月号 88頁

関連項目

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外部リンク

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