遠山景纂
遠山 景纂(とおやま かげつぐ、文化14年8月23日(1817年10月3日) - 安政2年8月27日(1855年10月7日))は、江戸時代の旗本。父は江戸町奉行を務めた遠山景元、母は堀田一定の娘けい。植村景鳳の弟、景興、景明の兄。妻は土岐朝旨の娘、曾我七兵衛の娘。子に景彰。幼名は国太郎、通称は金四郎。
人物
編集天保5年(1834年)11月28日に西丸小納戸に務め、当時世子だった徳川家慶に仕えた。
天保7年(1836年)に本丸小納戸に移り、翌8年(1837年)に西丸小納戸に戻り、天保12年(1841年)3月23日に再び本丸小納戸に入り、弘化4年(1847年)8月10日に徒頭に転任した。嘉永4年(1851年)6月8日、西丸目付に昇進、翌5年(1852年)の父の隠居で家督を相続した。
嘉永7年(1854年)1月22日、本丸目付に転任、安政2年(1855年)2月29日に亡くなった父の葬儀を務め一時休職、葬儀を終えた後に復帰したが、8月27日、13代将軍徳川家定の馬揃えに参加した時に病気となり、同日に39歳で死去。家臣達と同僚の目付衆との相談で、幕府には9月10日に死去したと届け出され、12月3日に子の景彰が幕府から相続を認められ出仕した。
遠山家の家臣が記録した日記には岩瀬忠震・永井尚志らの名前が記録されていて、2人の仕事内容と贈り物のやり取りがあったことが書かれていて、彼らと交流があったことが確認されている。また、景纂自身も徒頭在任期に『歩兵校尉日記』を書いていた。