近藤用義
近藤 用義(こんどう もちよし)は、江戸時代前期の旗本。近藤秀用の四男。のちに秀用の遺領を分割して受け継ぐ「五近藤家」の一つ・井伊谷近藤家の家祖にあたる。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長元年(1596年)[注釈 1] |
死没 | 寛永3年10月13日(1626年12月1日)[1] |
別名 | 通称:彦九郎[1] |
戒名 | 浄銕[1] |
墓所 | 神奈川県足柄下郡箱根町の早雲寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 近藤氏 |
父母 | 父:近藤秀用 母:本多信俊の娘[1] |
兄弟 |
季用、用可、用宗、用義、女子(米倉平大夫妻)、女子(小笠原権之丞妻、のち九鬼長兵衛妻)、女子(由良貞繁妻) [2] 養兄弟:忠吉(西郷家貞の子) |
妻 | 井上正就の養女[1][注釈 2] |
子 | 用将、女子(上杉長貞妻)[1] |
生涯
編集慶長元年(1596年)[注釈 1]、近藤秀用の四男として生まれる[1]。母は秀用の正室(本多信俊の娘)で、近藤季用・用可は同母兄である[注釈 3]。
慶長年中(1596年 - 1615年)、徳川家康に御目見[1]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父とともに従軍[1]。翌慶長20年/元和元年(1615年)の夏の陣にも従軍し、首級2つを挙げた[1]。戦後は小姓組に属する[1]。
寛永元年(1624年)、秀用が小田原城番に任じられると[1][注釈 4]、秀用からの要請によって小田原に赴き、その職務を補佐した[1]。寛永3年(1626年)、小田原で没する[1]。享年31[1]。同地の早雲寺に葬られた[1]。