近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月13日) - 1965年(昭和40年)10月17日)は、愛知県碧海郡鷲塚村(現・碧南市)出身の医師医学博士)。

こんどう けんろう

近藤 乾郎
生誕 (1879-05-13) 1879年5月13日
愛知県碧海郡鷲塚村
(現・碧南市
死没 (1965-10-17) 1965年10月17日(86歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 大阪高等医学校
(現・大阪大学医学部
職業 医師
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経歴

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青年時代

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父の近藤坦平

1879年(明治12年)5月13日、近藤坦平の三男として生まれた[1][2]。1903年(明治36年)、義兄である近藤次繁の妹としと結婚した[3]。兄ふたりと弟(坦平の長男・二男・四男)は幼くして病没しており、三男である乾郎が近藤家の家督を継いでいる[3]

1904年(明治37年)に大阪高等医学校(現・大阪大学医学部)を卒業し、京都帝国大学医化学教室などで研究活動を行った後、1908年(明治41年)からドイツオーストリアウィーン大学に留学した[1][2]。留学前には洋々医館の同窓生らが集まって祝賀会が催されている[2]

医師として

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洋々医館の門
 
洋々医館跡

1910年(明治43年)に坦平が洋々医館の病院長を退任した後、杉山卯三郎と田中島吉の2人が病院長代理を務めていたが、1912年(明治44年)に乾郎が帰国すると5月には洋々医館の病院長に就任した[4]。同年3月1日には開業記念祝賀会が催されている[2]

この頃の洋々医館は伝染病室、研究室、手術室、レントゲン室各1棟と近藤文庫を有していた[4]。乾郎の専門は内科であり、仲村仁平が外科主任に就任した[4]。1913年(大正2年)に愛知県で行われた陸軍特別大演習の際には、坦平と乾郎が名古屋市で開催された宴会に招待された[5]

しかし、1913年(大正2年)には駿河台病院の内科部長に就任し、1914年(大正3年)には東京市四谷区北伊賀町(現・東京都新宿区四谷三栄町)に近藤内科病院(近藤病院)を開業した[1]。さらには、東京逓信診療所嘱託医師[1]、日本結核予防協会評議員[1]、全日本看護婦連盟主事などを務めた。

乾郎が鷲塚を去った1915年(大正4年)以降に洋々医館の院長を務めた人物には、平野晋、西村菊治郎、伊藤孝一郎、古居亮治郎(刈谷豊田病院初代院長)、須磨治海、正木治郎、滝本俊夫、伊藤明、酒井正巳、鈴木良人などがいる[6]。乾郎は1930年(昭和5年)以降に洋々医館の顧問を務めた[7]

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には戦災で近藤病院が全焼した[7][2]。戦災後には帰郷して洋々医館で週3回の診療に従事していたが、戦後には再び上京した[3]。政治的には修正資本主義を志向し、共産主義を嫌悪した[7]

死去

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1965年(昭和40年)に10月17日に東京で死去した[3]。乾郎の死去によって病院としての洋々医館が廃止され、洋々医館は診療所となった[8]。既に近藤家には洋々医館の跡を継ぐ医師がおらず、1964年(昭和39年)9月から勤務していた長谷川隆男が診療所長となった[8]

家族

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近藤家

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  • 祖父:近藤安中 - 医師。

脚注

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  1. ^ a b c d e 久米康裕『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年、p.15
  2. ^ a b c d e 『碧南の医人展』碧南市教育委員会文化財課、2017年、pp.82-93
  3. ^ a b c d 『碧南市医師会史』碧南市医師会、1968年、p.42
  4. ^ a b c 『碧南市医師会史』碧南市医師会、1968年、p.59
  5. ^ 『碧南の医人展』碧南市教育委員会文化財課、2017年、pp.85-93
  6. ^ 『碧南の医人展』碧南市教育委員会文化財課、2017年、pp.94-100
  7. ^ a b c 『碧南市医師会史』碧南市医師会、1968年、pp.499-500
  8. ^ a b 『碧南市医師会史』碧南市医師会、1968年、p.458
  9. ^ a b c d e 久米康裕『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年、p.637

参考文献

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  • 『碧南の医人展』碧南市教育委員会文化財課、2017年
  • 久米康裕『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年