身請
身請(みうけ)は、芸娼妓など年季奉公人の身の代金(前借り金)を支払い、約束の年季が明ける前に、稼業をやめさせることである。遊女を自分の妻または妾にしようとする者が費用を負担して行われる場合が多い。落籍(らくせき、年季明けも含む)、根引(ねびき)ともいい[1][2]、特に客から雇い主に金を支払う場合を身請け(客引き)、客が本人の家族に金を渡し、家族から雇い主に支払う場合を身抜け(親引き)とも呼ぶ。

概要
編集江戸時代の遊女がその身分を離れるのには3つの場合があり、1つは年季明け、もう1つは死亡、最後の1つが身請である[1]。大田南畝『金曽木』には、身請は客が亭主(楼主)に価を渡すもので、その時は家内の娼妓全員で大門口から見送るといい、身ぬ(抜)けは客が親に価を渡してさらに親から亭主に支払われるというもので、当時は後者の方が多く行われたという[2]。
遊女の年季奉公証文には、「妻妾養女に望み申す者之れ有り候ハヾ、女子も得心の上、樽代金何様取申され、何方(いずかた)へ遣され候共、」という文言が含まれていたため、楼主は遊女の親権者の同意がなくとも身請契約を結ぶことができた[1]。ただし楼主が遊女の身柄を差配できるのは年季中だけと考えられていたため、身請によって婚姻がなされた場合でも本来の年季が明けた後の進退は親権者が決定することを確認する文言が身請証文に含まれている例もある[3]。一般には身請をしようという者が楼主に申し出、楼主が親元に異論がないことを確認した上で費用の支払いが行われることとなる[4][5]。
身請の代金は実質的には身代金の意味を有するものではあるが、江戸幕府は公的には人身売買を禁じていたため、身売りの代金が年季奉公の「給金の前払い」とされたのと対応し、法的には「既払いの給金の返還の立替」として扱われることとなる[3][2]。ただしこれには楼主の儲けが加算されるため、非常に高額となる場合があった[5]。松葉屋半右衛門は瀬川の名を襲名した4人の遊女を、それぞれ1000両もの額で請出し1代のうちに莫大な利益を得たと言われ[6]、大田南畝『俗耳鼓吹』には天明3年(1783年)に瀬川は1500両で請け出されたという噂が採録されている[7]。このような高額は極端な例ではあるが、のちには500両という上限が設けられるようになり、その時期を関根金四郎は寛政年間としている[6]。地方宿場の飯盛女の身請であっても明和4年(1767年)に50両の金額で身請した例が確認でき、飯盛女の年季奉公給金がせいぜい10両程度であることを考えると雇い主が大きな利幅を得ていたことがうかがわれる[8]。なお楼主が受け取った身代金が親権者に分配されることはない[2][5]。
『御前義経記』には手形を改めて無事身請が済むと公事宿で千秋万歳をうたう描写があるが、これは当時の身請が重大な取引の一貫として公事師の介在があったものとみられる[2]。
親元から楼主に身代金を支払う身抜けの方法を採る場合、直接客が楼主と交渉する場合よりも身代金の額が少なく済んだ[6][2]。また、親元から直接廓に入った者は身請が容易であったが、女衒を介した場合には費用の増大などにより身請が困難となったとも言われる[9]。
遊郭を出るには当事者の金銭や証文の授受だけでなく、籍を除く事務手続も必要であり、楼主によって宿老殿(町役人)で判を捺し、月行事から札を取る手続を経なければ大門から遊郭を離れることが出来なかったことが近松門左衛門『冥途の飛脚』に見える[5]。
身請された遊女が遊郭を去るときは、本人に奉仕していた禿や、同じ妓楼の遊女たちは総出で大門まで見送りに来るという[2]。位の高い遊女の高額での身請の場合は豪華な宴席を催し、廓内はもちろん仲之町通りにまで赤飯・鰹節の祝儀を贈ったと言われる[9]。大坂新町遊廓の天明年間の細見『みをつくし』には、「身請門出」として身請が決まった遊女が揚屋・茶屋・楼主の親類などに祝儀の酒・肴・絹織物などを贈り、家内一門一家が集まって料理と酒盛りを行い、揚屋から駕籠の迎えが来る場合もあるとされ、なじみの女郎らが集まり大門から見送る様が描写されている[2]。しかし後には赤飯を振る舞う程度の場合や、挨拶すらなく出て行く者もあったとされる[1]。
明治時代以降は貸借原簿を用いて身請の金額を算出するようになったため、江戸時代のように祝儀まで含めた莫大な額での身請は行われなくなった[10]。
身請証文
編集身請の際には身請人が楼主に身請証文を差し出すこととなっていた[2]。遊女の身請証文の実例はきわめて少ない[11]。江戸吉原遊廓では元禄13年(1700年)三浦屋の薄雲(『花街漫録』)、寛保元年(1741年)三浦屋の高尾(山東京伝『高尾考』)の写しが知られ、関根金四郎は天和2年(1682年)ちとせ、元禄3年(1690年)初菊の身請証文の文言を紹介している[12]。地方宿場の飯盛女の身請証文としては、文政9年(1826年)宇都宮宿「さの」身請証文を瀧川政次郎が[11][3][2]、明和4年(1767年)の証文を児玉幸多が、嘉永3年(1850年)木崎宿「はま」、寛政7年(1795年)上州一ノ宮宿「こよ」の証文を五十嵐富夫が紹介している[8]。
『花街漫録』所収元禄13年の薄雲身請証文を以下に引用する[13]。
証文之事
一、其方抱之薄雲と申けいセい(傾城)、未年季之内ニ御座候へ共、我等妻に致度色々申候所ニ、無相違妻■被下、其上衣類夜着蒲団手道具長持迄相添被下、忝存候、則為樽代、金子三百五拾両其方へ進申候、自今已後、御公儀様より御法度被為仰付候江戸御町中ばいた遊女出合御座敷は不及申ニ、道中茶屋はたごや、左様成遊女がましき所ニ、指置申間敷候、若左様之遊女所ニ差置申候と申もの御座候ば、御公儀様え被上仰、如何様ニも御懸り可被成候、其時一言之義申間敷候、右之薄雲若離別致し候ハヾ、金子百両ニ家屋敷相添、隙出シ可申候、為後日仍証文如件、
元禄十三年
辰ノ七月三日
貰主 源六
請人 平右衛門
同 半四郎
四郎左衛門殿
身代金は「樽代」、すなわち祝儀の酒代という名目で計上されている[11][2]。身請された者が再度遊女として働くことを厳密に禁じる文言が含まれているが、瀧川政次郎によればこれは遊女として働かせたり、別の者により高額で身請させたりする目的での業者による身請を防止しようとしたものとされている[11][3][2]。他方、石井良助は通常の婚姻の場合にも「遊女売女等は不及申、見苦敷奉公決て為致申間敷候」という同様の約定が結ばれていたと指摘している[13]。このような文言は形式的なものとは考えられるが飯盛女の身請証文においても含まれている[11]。また薄雲を離縁した場合には金100両と家屋敷を添えて隙を出すという不離縁の担保条項も含まれており、このような条項も江戸時代には婚姻に際し締結されることは珍しくなかった[13]。
不離縁の担保と遊女労働の禁止条項は、以下の寛保元年、三浦屋の高尾の身請証文にも含まれている。これは高尾を久兵衛という町人が養女として身請することを内容としているが、実際には姫路藩主・榊原政岑が自身の妾とするために身請したものとされている[13]。
身請證文之事
一、貴殿抱の高尾ト申傾城、未年季之内ニ御座候処、我等娘分に貰請度申入候得ば、承引被致、則樽代金差出し、我等娘分に貰請申候処実正也、尤右之高尾諸親類共に引受、少しも如在為致申間敷候、若不縁ニて、其元え相もどし候ハヾ、右之女子金子弐百両相附、勿論衣類手道具相添、貴殿方へ相返し可申候、其時異儀申間敷候、
一、御公儀御法度ニ被為仰付候通、江戸御町中ハ申ニ不及、於脇之料理茶屋并ニ道中はたごや、総て遊女商売ケ間敷所にかたく差置申間敷候、若右様之処ニ差置申候ハヾ、御公儀様え被仰上、何分にも御懸リ可有候、為後日之、女貰証文仍如件、
寛保元年酉六月四日 日本橋南檜物町二丁目
貰主 久兵衛
揚屋町和泉屋
請人 清六
四郎左衛門殿
脚注
編集- ^ a b c d 宮本由紀子 著「身請け」、西山松之助 編『日本史小百科』 9巻、近藤出版社、1979年9月30日、38-39頁。doi:10.11501/12205726。( 要登録)
- ^ a b c d e f g h i j k l 瀧川政次郎『吉原の四季』青蛙房、1971年1月5日、192-198頁。doi:10.11501/12278977。( 要登録)
- ^ a b c d 瀧川政次郎『日本法制史研究』有斐閣、1941年3月5日、735-737頁。doi:10.11501/1269827。
- ^ 関根 1894, p. 85.
- ^ a b c d 小野武雄『吉原・島原』教育社〈教育社歴史新書〉、1978年8月20日、96-100頁。doi:10.11501/12280638。( 要登録)
- ^ a b c 関根 1894, p. 88.
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年3月3日閲覧。
- ^ a b 五十嵐富夫『飯盛女―宿場の娼婦たち』新人物往来社、1981年1月25日、180-185頁。doi:10.11501/12168274。( 要登録)
- ^ a b 関根 1894, p. 89.
- ^ 改訂新版 世界大百科事典『身請』 - コトバンク
- ^ a b c d e 瀧川政次郎「遊女身請證文」『法律史話』巌松堂書店、1932年10月15日、232-238頁。doi:10.11501/1269398。
- ^ 関根 1894, pp. 86–87.
- ^ a b c d 石井良助『日本婚姻法史』創文社、1977年3月30日、369-373頁。doi:10.11501/11933272。( 要登録)
参考文献
編集- 関根金四郎『江戸花街沿革誌』 下、六合館弦巻書店、1894年4月13日。doi:10.11501/992967。