赤松貞範
赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美作国守護[1]。子孫は、春日部流(春日部流赤松氏[2])と称された[3][4]。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 徳治元年(1306年)? |
死没 | 文中3年/応安7年(1374年)? |
別名 | 次郎、春日部雅楽助、筑前入道世貞 |
戒名 | 栖雲寺殿実翁世貞 |
官位 | 従五位下、左衛門尉、雅楽助、筑前守 |
幕府 | 室町幕府 美作国守護 |
主君 | 後醍醐天皇→足利尊氏 |
氏族 | 赤松氏 |
父母 | 父:赤松則村(円心) |
兄弟 | 範資、貞範、則祐、氏範 |
子 | 顕則、頼則 |
生涯
編集徳治元年(1306年)[注 1]、赤松則村(円心)の次男[5]として誕生[6]。
嘉暦元年(1326年)頃、兄・範資と共に摂津国長洲荘(長洲御厨)の荘官沙汰人を務めたと推定され、同年9月に提出された起請文には、貞範は惣追捕使、範資は執行として記されている[7][8][注 2]。
父・円心が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った。元弘3年(1333年)1月、鎌倉方の備前国三石城城主・伊東宣祐が舟坂峠に侵攻すると、貞範がこれを迎え撃ち、破った[10]。
『太平記』によると、その後、円心ら一族と共に摂津国に進出し、摩耶山に拠った[11]。同年閏2月11日、鎌倉方により摩耶山を攻められるが、これを撃退した[11]。ただし、『兵庫県史』はこの日付に疑義を呈しており、赤松勢は、閏2月23日に尼崎を攻撃、翌24日に坂部(酒部)(現・尼崎市)の合戦で敗退して摩耶山に籠もったと推測している[12]。
建武2年(1335年)、中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わった[5]。戦後、尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は300騎で脇屋義助7000騎に突撃を敢行した。これを見て義貞方の大友貞載が寝返ったため戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。同3年(1336年)9月、丹波国春日部荘の地頭職を与えられた[3]。
南北朝時代には北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活動し、室町幕府の確立に尽力した。
貞和5年(1349年)春、姫山城(のちの姫路城)を築いた[13]。同年8月、尊氏の命により、父・円心は、足利直義方である長門探題・足利直冬の東上に備え、美作国との国境を守ったとされる[13]。
貞和6年(1350年)1月13日、父・円心が逝去[14]。翌・正平6年/観応2年(1351年)4月8日、兄・範資が急逝した[14]。範資の子・赤松光範が摂津国守護職を安堵されたが、赤松家の家督と播磨国守護職は、弟・則祐に与えられた[14]。貞範が選ばれなかった理由は幕府から疎まれていたためとされる[注 3]。
正平11年/延文元年(1356年)から美作国守護を務めていた徴証がある[3]。同4年(1359年)からは筑前入道世貞と称した[3]。康安元年(1361年)7月12日、山名時氏が美作国に侵入し、倉懸城(旧・岡山県作東町)を攻めると、救援に赴いたが敗退した[16]。
貞治3年(1364年)、美作国守護を、幕府に帰順した山名義理と交替されられた[3]。
後世の系図では、応安7年(1374年)に69歳で死去したとあるが、永和2年(1376年)に活動の徴証がある[3]。法号は
仏教との関わり
編集家族
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 今井ほか 1984, p. 292.
- ^ 一宮町史編集委員会 1985, p. 190.
- ^ a b c d e f g h i “前期赤松氏系図”. 兵庫県立歴史博物館. 2023年12月10日閲覧。
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 817.
- ^ a b 一宮町史編集委員会 1985, p. 160.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 13頁。
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, pp. 599–600.
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 610,622.
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 622.
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, pp. 622–623.
- ^ a b 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 624.
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, pp. 624–625.
- ^ a b 一宮町史編集委員会 1985, p. 175.
- ^ a b c d 一宮町史編集委員会 1985, p. 183.
- ^ 高坂 1970, p. 85.
- ^ 一宮町史編集委員会 1985, p. 182.
- ^ a b 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 845.
- ^ “栖雲寺跡”. 上郡町郷土資料館. 2023年12月10日閲覧。
- ^ “禅宗寺院”. 兵庫県立歴史博物館. 2023年12月10日閲覧。
- ^ 一宮町史編集委員会 1985, pp. 276–277.
- ^ a b “はりま風土記紀行 > 古の播磨を訪ねて~上郡町編 その5”. 播磨広域連携協議会. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “縁起”. 白毫寺. 2023年12月10日閲覧。
- ^ “境内案内”. 白毫寺. 2023年12月10日閲覧。
- ^ 今井ほか 1984, pp. 292–293.
- ^ 一宮町史編集委員会 1985, p. 177.
参考文献
編集- 一宮町史編集委員会 編『一宮町史』宍粟郡一宮町、1985年3月31日。NDLJP:9575791。(要登録)
- 今井堯ほか 編『日本史総覧』 Ⅲ《中世二》、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月10日。ASIN B000J78OVQ。ISBN 978-4404011824。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。NDLJP:12193105/150。(要登録)
- 高坂好 著、日本歴史学会 編『赤松円心・満祐』 155巻、吉川弘文館〈人物叢書〉、1970年3月。 NCID BN02378981。OCLC 29341608。全国書誌番号:73006025。
- 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
- 兵庫県史編集専門委員会 編『兵庫県史』 第2巻、兵庫県、1975年3月31日。NDLJP:9573664。(要登録)