賀茂規清
賀茂 規清(かも の のりきよ、1798年 - 1861年)は、山城国出身の江戸時代の神道家。烏伝神道を唱導した。八丈島に流罪[1]。梅辻則清とも。
概要
編集上賀茂神社の社家に生まれる。家の名が梅辻で、本姓は賀茂県主である[2][3]。江戸の下谷池の端の「瑞烏園」で主に神道を講釈するなどした。幕府に神道的な観点から献策し、「忠孝山」の建設などを提起した[4][5]。
1847年、「政道を批判」したとして八丈島に流罪の判決が下された[6][7]。流罪途中、三宅島を中継地としたが、ここで後の禊教につながる神道家の井上正鉄と会見している[6]。
黒羽藩の第11代藩主である大関増業は規清に師事していた[8] 。また、規清は流罪後に同じ流民で民衆活動家の菅野八郎と接点があった[7]。
同島で死去。
思想
編集『日本書紀』の神代を、「万人の系図」と「帝王の系図」に分けた上で、後者は天皇家の始祖である「羽明玉ノ御祖王」と三十二神による国家建設の話とした[9]。
関連作品
編集- 『京都梅咲菖蒲の嫁ぎ先』望月麻衣
出典
編集- 『神道大辞典 : 3巻. 第一卷』(国立国会図書館) p.368 「賀茂規清」平凡社(1941年)
- 『神道史の研究』(国立国会図書館) p.133-160 「賀茂規清の神道説」河野省三、中央公論社(1944年)
- 『社会徳育及教化の研究』(国立国会図書館) p.422-427 「梅辻規淸の敎化」 中島力造・足立栗園、隆文館(1914年)
- ^ “梅辻規清墓”. 八丈島の文化財. 2021年12月27日閲覧。
- ^ “賀茂県主同族会(上賀茂神社)/賀茂祢宜神主系図ほか 賀茂系図(新古系図)(3) 清 規清”. ADEAC. 2021年12月27日閲覧。
- ^ 賀茂縣主だより第7号(平成13年)一般財団賀茂県主同族会発行、賀茂県主同族会ホームページ
- ^ 佐藤 弘夫 (2021年4月21日). “靖国神社と「神国」日本を生んだ、人を「神」に祀り上げる思想の正体”. 現代新書. 2021年12月27日閲覧。
- ^ 神田秀雄 (2001). “末永恵子著『烏伝神道の基礎的研究』”. 日本思想史学 33 .
- ^ a b 中村 和裕 (1994). “<研究ノート>流謫後の賀茂規清について(上) : 諸書に散見する規清記事に関する一考察”. 弘前大学國史研究 97 .
- ^ a b 中村 和裕 (1995). “流謫後の賀茂規清について(下) : 諸書に散見する規清記事に関する一考察”. 弘前大学國史研究 98 .
- ^ 杉浦 克己 (1992). “黒羽版日本書紀の訓読上の特色について”. 放送大学研究年報 9 .
- ^ 末永恵子 (1995). “賀茂規清の神代巻解釈”. 日本思想史学 27 .