費晴湖
略伝
編集天明から寛政年間に船主として来舶した。同じく来舶清人の費漢源の同族とされる。 父が長崎に居を構えていたが薩摩沖で遭難して死亡。その遺骨を引き取ることを長崎奉行所から許され、寛政7年に(1795年)に祖国に持ち帰ったという記録がある。
増山雪斎の名を受けて、長崎に遊歴した画家・春木南湖や十時梅厓が晴湖から画技と書法を伝授されている。背丈は標準で赤黒い顔色、逞しい体格だったと伝えている[1]。『費氏山水画式』(1787年)の序文には董其昌と米芾に私淑して筆意を得たという。女流俳人・一字庵菊舎に会うとその漢詩と七弦琴の才能を喜び、漢詩と序文を贈っている。
後年、明治の女流画人・奥原晴湖は、費晴湖を強く敬慕し自らの画号とした。
晴湖を来舶四大家の一人[2]とすることがある。