貝原 東軒(かいばら とうけん、1652年承応元年[1]) - 1714年2月10日正徳3年12月26日[1]))は、江戸時代の女流書家、歌人。生家の苗字は江崎、名は初、字は得生。福岡藩の本草学者で儒学者でもあった貝原益軒の妻。

かいばら とうけん

貝原 東軒
生誕 江崎 初
1652年
筑前国秋月(現・福岡県朝倉市
死没 1714年2月10日
墓地 金龍寺(福岡県福岡市中央区今川二丁目)
国籍 日本の旗 日本
配偶者 貝原益軒
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生涯・人物

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金龍寺にある貝原夫妻の墓
 
貝原益軒東軒蔵書印影

福岡藩支藩だった秋月藩の藩士、江崎広道の娘として生まれる[1]。広道は畏斎と号して宋学を篤信していた。東軒も幼いころより父の薫陶を受け、経史に通じ、墨書を能くした[2]

寛文8年(1688年6月25日、17歳の時に、医師であった兄(一説に叔父[3])と共に行動していた[4]39歳の貝原益軒と結婚した[5][注釈 1]。東軒は和歌に秀でたほか、筝・胡琴をよく弾き、晩年は夫・益軒らとの合奏を楽しんだ。楷書にも巧みで、益軒と合作の軸物もしばしば伝わっている[7]。例えば、東軒が「愛敬」と記し、その傍らに益軒が細書している。また、益軒の日記や雑記ノートに東軒がしばしば代筆している場合もあり、内助の功が多くあった。東軒自筆の楽譜や詞かるたも現存する[8]

2人の仲は良かったが、終生子ができなかった。東軒は華奢な体質だったようで、結婚後も郷里から両親が駆けつけるような重病を前後4回、患っている[9]

夫婦仲の良さを示す逸話として、益軒は妻の東軒をしばしば旅に同行させ、時に1年に及ぶ長旅になることもあった[10]

また夫婦の軽妙なやり取りとして

ある時東軒菜園に出て萵苣を摘む。偶益軒橡端に在り之を見呼んで曰く。
「ちしやとはたれが名づけそめけん」
と東軒言下に答へて曰く
「ただ人のしるのみなればいかにして」
と応て摘む菜を終り羹汁となして食膳に供せりその詩趣津々たるは更に言はず。琴瑟相和の状以て知るべし
朝倉郡郷土人物誌

というものが伝えられている[1][11][注釈 2]

墓所は福岡市中央区今川二丁目の金龍寺で、夫の益軒と隣り合って葬られている[12]

評価・作品

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毛利小太郎は1931年(昭和6年)に「貝原益軒の妻女」という作品の中で、東軒を

儒教的女子教育の権化とも申すべき人であります。

と高く評価している[13]。歌は次の一首が署名つきで残っている。

畏斎の君 既に九十の御(おん)よはひをたもち給ふをことふきし 猶行末久しき御命(おんいのち)をこひいのり ともによをこへるを祝奉(いわいたてまつ)りける
百(もも)とせをふともいくたび手を折りて末はるかなる世をやかそへん 東軒署[2]

また、東軒は野村望東尼二川玉篠高場乱亀井少琹らとともに「筑前五女」と称されることがある[14]

福岡市博物館には東軒の書が所蔵されている[15]

『女大学』との関わり

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近世に女子の教訓所として普及した『女大学』は、末尾に「益軒貝原先生述」と署名されているが、益軒の著述目録の中に書名はなく、子孫の家にもその稿本が見当たらないことから、実際は東軒の作ではないかとする説がある。

福本日南は著書『筑前志』の中で

其の著す所の「女大学」最も世に行はる

として、東軒夫人の著述と見なしている。三浦末雄は、「それは兎に角東軒自身「女大学」の信奉者であり、実践者であったことは疑う余地はない」と評している[16]

対して、高群逸枝

益軒の遊記の中には、実は東軒の筆によるものが少なくないという。しかし『女大学』を益軒の『和俗童子訓』巻五教女子法等を骨子として、彼女がまとめたという説のごときは、何ら根拠がない。

とする見解を示している[17]

また、昭和女子大学名誉教授の浮須婦紗[18]は論考『「女大学」の著者考』において、10名ほどの考察や論述を引き、益軒、東軒、第三者による『童子訓』の改作などの説を提示したうえで、益軒自身の『童子訓』の改作が未発表のままのちに出版されたものではないかという説を提示している[19]

脚注

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注釈

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  1. ^ 婚姻に伴って妻が夫の姓を慣例的に名乗るようになるのは明治以降のことだが、当時の初(東軒)が夫の姓である「貝原」を名乗り、知られていることはとても珍しいとされている[6]
  2. ^ 東軒が菜園で萵苣(日本で古くから栽培されていた、結球しないタイプのレタス和え物おひたし、汁物の実として食された)を摘んでいたところ、益軒が「萵苣(ちしゃ)とは誰が名付けたのだろう」と問いかけると、東軒は即座に「凡人の私は名前だけは知っていますけれどどうしたら(誰が名付けたか知ることができましょう)」と答えたというもので、この後、萵苣は味噌汁に入れられて食されたという。「ちしゃ=萵苣=知者」に対して「味噌汁の具=汁の身=知るのみ」と返している。

出典

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  1. ^ a b c d 福岡県朝倉郡教育会 編『朝倉郡郷土人物誌』福岡県朝倉郡教育会、1926年、42頁。doi:10.11501/1020198https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020198/1/37 
  2. ^ a b 西村天囚『九州の儒者たち 儒学の系譜を訪ねて』海鳥ブックス、1991年6月20日。 
  3. ^ 福岡県女性史編纂委員会『光をかざす女たち』西日本新聞社、1993年4月。 
  4. ^ 西日本シティ銀行 編『博多に強くなろう 北九州に強くなろう 100の物語 上巻』西日本新聞社、2018‐11-22、86頁。ISBN 978-4816709609 
  5. ^ 三浦末雄『物語秋月史 中巻』秋月郷土館、1968年8月15日、258頁。 
  6. ^ 田中 敬『和漢書目録法』日本図書館協会、1939年1月1日、258頁。 
  7. ^ No.043 筑前の女性文化人展 | アーカイブズ | 福岡市博物館”. museum.city.fukuoka.jp. 2023年7月31日閲覧。
  8. ^ 館蔵名品で見る郷土の人と文化1-女性文化人の系譜- | アーカイブズ | 福岡市博物館”. museum.city.fukuoka.jp. 2023年7月31日閲覧。
  9. ^ 貝原益軒. 吉川弘文館. (1963-4-5). pp. 56-60. ISBN 4-642-05145-7 
  10. ^ 西日本シティ銀行 編『博多に強くなろう 北九州に強くなろう 100の物語 上巻』西日本新聞社、2018‐11-22、86頁。ISBN 978-4816709609 
  11. ^ 甘木市史 上巻』甘木市史編さん委員会、1982年、819-820頁。doi:10.11501/9574944https://dl.ndl.go.jp/pid/9574944/1/432 
  12. ^ 金龍寺・貝原益軒の墓 | 文化財情報検索”. 福岡市の文化財. 2023年7月31日閲覧。
  13. ^ 三浦末雄『物語秋月史 中巻』秋月郷土館、1968年8月15日、259頁。 
  14. ^ 『女流著作解題』女子学習院 編、1939年、547頁。doi:10.11501/9774584 
  15. ^ [ID:191936] 貝原東軒書 : 資料情報 | 収蔵品データベース | 福岡市博物館”. 福岡市博物館 - 収蔵品データベース. 2023年7月31日閲覧。
  16. ^ 三浦末雄『物語秋月史中巻』秋月郷土館、1968年8月15日、259頁。 
  17. ^ 高群逸枝『大日本女性人名辞書 増補』厚生閣、1939年、117頁。doi:10.11501/1879750https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879750/1/75 
  18. ^ 役員紹介|学校法人昭和女子大学”. office.swu.ac.jp. 2023年7月30日閲覧。
  19. ^ 浮須婦紗『学苑 (407)』光葉会、1973年11月、64-85頁。doi:10.11501/3373420https://dl.ndl.go.jp/pid/3373420/1/34 

参考文献

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