諏訪頼雄
日本の江戸時代前期の武士。信濃諏訪大社上社大祝諏訪頼忠四男で、諏訪図書家初代当主。家老を勤める
諏訪 頼雄(すわ よりかつ)は、江戸時代前期の信濃国諏訪藩の家老。諏訪図書家初代。諏訪頼忠の四男。兄頼水に家老として仕え、領内の新田開発に功績があった。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永8年11月4日(1631年12月26日) |
改名 | 竹千代(幼名)→頼雄 |
別名 | 源太右衛門、美作(通称) |
主君 | 諏訪頼水 |
藩 | 信濃諏訪藩家老 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪頼忠、母:向山氏娘・理昌院 |
兄弟 | 頼水、頼定、頼雄、頼広、頼盛 |
妻 | 正室:松平近正娘[1] |
子 | 盛政、三安 |
略歴
編集諏訪頼忠の四男として生まれる。幼少時は父が臣従した徳川家康の人質として、家康居所の駿府で過ごす。文禄元年(1592年)、上野国総社領主となった兄・頼水に仕えた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、徳川秀忠付きとなった頼水の供をして、上野国高崎城を守備した。慶長6年(1601年)、頼水が功績により旧領信濃高島へ転封となるとそれに従う。頼水の意向に従って、領内原山の新田開発を指揮し、慶長15年(1610年)に完成させた。慶長16年(1611年)、江戸藩邸で火災が起こり、火元となった藩士高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する頼水に諫言して対立し、他の重臣たちと共に藩を退去する。翌慶長17年(1612年)、屋代秀正、小笠原秀政の仲裁により頼水が折れて帰参する。慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)、大坂夏冬両陣では甲府城守備を命じられた頼水に従う。
人物
編集婚儀の際、松平近正が火車退治に用いた藤嶋友重の刀(火車切)と火車の爪を贈られ、代々家宝として伝えた。
原山新田の開発に尽力したことから領民に崇敬され、鎮守社に兄頼水と共に祭られた。
脚注
編集参考文献
編集- 『諏訪史年表』諏訪教育会
- 『諏訪資料叢書第27巻』諏訪教育会 . NCID BN12468435
- 『諏訪の近世史』諏訪教育会