諏訪忠晴
諏訪 忠晴(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主・諏訪忠恒の長男。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永16年8月21日(1639年9月18日) |
死没 | 元禄8年3月2日(1695年4月14日) |
改名 | 右京(幼名)→忠晴 |
戒名 | 乾隆院殿雄巌文頴大居士 |
墓所 | 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺 |
官位 | 従五位下、因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 信濃高島藩主 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪忠恒、母:永高院(小喜多氏) |
兄弟 | 忠晴、頼蔭、頼久、盛條 |
妻 | 内藤忠興の養女 |
子 | 忠虎(三男)、頼基(四男、諏訪大社大祝諏訪頼隆養子) |
生涯
編集生母は国元の側室であったため、諏訪にて産まれた。
明暦3年(1657年)、父の死去により跡を継いだ。相続の際、父の遺命に従い筑摩郡5000石の内から、弟の頼蔭(埴原知行所)と頼久(百瀬知行所)にそれぞれ1000石ずつ分知し旗本に列させたため、諏訪藩は3万2000石から3万石となった。百瀬知行所には陣屋が置かれた。同年12月27日に従五位下因幡守に叙任された。万治元年(1658年)、磐城平藩主の内藤忠興の娘(養女)を正室とした。
延宝4年(1676年)、武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂した。また、狩野派の絵もよく描いていたなど、文化人としても優れていたことが伝えられている。
寛文5年(1665年)に宗門改めを行い、また藩士の知行を改め、蔵方知行とするなど忠晴の代は藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めた。
延宝の飢饉の際には、諏訪藩内でも死者が1200人も出るなど被害者が大きかった。その頃の藩主としての逸話がある。延宝6年(1678年)、父忠恒の時代に解決したはずの、金沢山の入会権をめぐる金沢村(金沢宿。現茅野市金沢)と隣の千野村との争いが再炎しており、収入源を得ようとしていた藩を巻き込んでの争いの中、代表として紛争の解決にあたった金沢宿の問屋小松三郎左衛門は、村のため裁許状を覆えそうと企て、藩により捕縛され処刑された。小松の財産は没取され、妻子は追放された。小松三郎左衛門磔殺事件と言われる[1][2]。藩の処断は苛烈であるとされるが、死刑処分は一人のみであり、藩が小松に対して突きつけた罪状は「山論に没頭するあまり、本来の問屋業務を疎かにした」であり、至極全うである。
天和元年(1682年)には高田城在番と高田領内の検地を務めた功績[3]により、天和3年(1683年)7月28日に検地の総奉行を務めた家老の諏訪頼意が江戸城に呼ばれ、幕府より恩賞を授かっている。その後も大坂城山里御門番、江戸火消役などを務めた。忠晴晩年頃から諏訪藩内では家老が政治を専横するようになり、後の二の丸騒動へと続いていく。元禄4年(1691年)、幕府より大坂加番を命じられ、家老の頼意らを率いて役を務めた。 天和3年(1683年)7月3日に、先代から預けられていた松平忠輝が、高島城南の丸屋敷にて92歳で死去した。
元禄8年(1695年)3月2日、諏訪にて57歳で死去し、諏訪藩主菩提寺の温泉寺に葬られた。跡を三男の忠虎が継いだ。
系譜
編集父母
- 諏訪忠恒(父)
- 永高院、小喜多氏 ー 側室(母)
正室
- 磐城平藩主内藤忠興の養女
子女
養女