見砂 和照(みさご かずあき、1951年9月15日[1] - )は日本のドラマー、バンドマスター東京都出身。東京キューバン・ボーイズの初代ドラマー見砂直照の三男[2]

見砂和照
生誕 (1951-09-15) 1951年9月15日
出身地 日本の旗 日本 東京都
ジャンル ロック
ポップス
ラテン音楽
職業 演奏家
担当楽器 ドラムス
活動期間 1973年 -

来歴

編集

音楽を始めたきっかけは、エレキ・バンドをやっていた姉の影響で小学校5年生(10歳)の時に演奏を見に連れて行ってもらった際、ドラムの生演奏を初めて目の前で見て感激したこと。その時「うわーすごいなあ。こんなことやれたらいいな」と憧れを抱き、ドラムを叩き始める[3]

中学生から高校生の頃は、同級生や先輩たちとアマチュアバンドを組み、17歳でプロのバンドに加入しデビューを果たす。19歳の時に関係者の目に留まり、歌手のレコーディングをサポートするスタジオ・ミュージシャンとなる。1973年には井上陽水のアルバム『氷の世界』でドラムを担当し[4]、それ以降、さだまさし松山千春村下孝蔵などのシンガーソングライターから、秋吉久美子中村雅俊志穂美悦子などの俳優や松田聖子松原みきなどのレコーディングにも参加する[5]。この頃の状況を和照は、「父の存在は業界の隅々にまで知れ亘っており、おのずと父の名前を背負うことに…。歴戦のプロに揉まれながら無我夢中でドラムを叩きました」と振り返っている。

23歳の時、大橋純子のバックバンドで知られる「美乃家セントラル・ステイション」を佐藤健らと結成する。ほか、ロックバンド″SHŌGUN″のメンバーとしても活躍した。

東京キューバン・ボーイズ再結成までの経緯

編集

父・直照はキューバにTCBのメンバーを連れていくのが夢だったが、金銭面で難航し諦めかけていた。そんな父の姿を見て和照は、「もうこれしかない」と世田谷区の自宅を抵当に入れて2000万円を工面し、父の夢であった南米ツアーを実現させた。和照はプロのドラマーとして活動をする中、1978年に直照から「ビッグバンドを経験した方が、音楽家としてつぶしがきくぞ」と誘われ、TCBのメンバーとして参加する[5]。2年後の1980年、直照の健康状態と経営の悪化からTCBは解散する。直照から「あとを継ぐつもりはないか?」と打診されたこともあったというが当時そんな気は全くなく、父が一代で築いたものだから、父自身で幕を閉じた方が良いと思い、誘いを断っていた。それから10年後に直照は亡くなるが、解散後も「またやって欲しい」という声は数多く寄せられていた[2]。ある日キューバ大使館から、「地球の裏側の日本でキューバ音楽を広めた東京キューバン・ボーイズの功績を讃えて表彰したい。そして音楽祭で演奏して欲しい」と思わぬ報せが届き、「もうバンドは解散してしまったのに、どうしよう……」と、嘗てのメンバーに相談したところ、「これほど名誉なことはない」と再結成を勧められる[2]。解散から25年を経た2005年には和照自身が中心となり、TCBは「見砂和照と東京キューバン・ボーイズ」として再結成された。初めは後方でドラムを叩いていたが、ビッグバンドで指揮者が居ないステージにどこか違和感を覚え、父が立っていた場所に自分も立つ決意をして、TCBの2代目バンドマスターに就任した[1]

主なレコーディング参加作品

編集

関連項目

編集

脚注

編集

出典

編集