西田升平
西田 升平(にしだ しょうへい、1943年11月15日 - 2015年6月24日)は、日本のプロゴルファー。
Shouhei NISHIDA | |
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基本情報 | |
名前 | 西田 升平 |
没年月日 | 2015年6月24日(71歳没) |
国籍 | 日本 |
経歴 |
1936年ベルリンオリンピックの陸上・棒高跳の銀メダリスト、西田修平の次男。
来歴
編集日立製作所の社員であった修平が赴任中のブラジルでゴルフを覚え[1]、1964年に入学した日本大学ゴルフ部では沼澤聖一と同期で山田健一の1年先輩、高橋信雄の2年先輩に当たる[2] [3]。竹田昭夫監督の下で同期の沼澤と共に柱となり、猛烈を極めたスパルタ練習を積んで頭角を現す[4]。在学中は第1次黄金時代を築き[5]、日本学生では沼澤が優勝した1966年にメダリスト[4]、1967年には優勝[6]。
1966年には中日クラウンズではアマ初となるプレーオフの末に接戦を制しベストアマを獲得[7]、中部銀次郎と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出され、団体8位[8]と健闘。
1967年には日本オープンでローアマを獲得し[9]、卒業後の1968年10月にプロ入りすると[2]、1972年のゴルフダイジェストトーナメントでは謝永郁(中華民国)と共に安田春雄の2位タイ[10] [11]に入った。
1973年の中日クラウンズでは許渓山(中華民国)、ベン・アルダ(フィリピン)、鈴村久・島田幸作と並んでの7位タイ[12]に入った。同年には賞金ランク26位とし、学士プロの先輩である新井規矩雄と共にシード入りを果たす[1]。
1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[13]に出場し、佐々木勝とペアを組んだダブルスでは初日を吉川一雄&鈴木規夫ペア、今井昌雪&内田繁ペアと並んでの3位タイ[14]でスタート。2日目には朝から15m前後の強風が海側から吹き荒れ、時折、南国特有の豪雨も混じる最悪のコンディションの中で2位[15]、3日目には村上隆&河野高明ペアと並んでの2位タイ[16]に着けた。
1981年までシード選手としてトーナメントに参戦し、同年4月からは日本橋高島屋顧問契約プロとして販売促進及びレッスン教室を開催[17]。
1986年からはテレビ朝日専属トーナメント解説者として活動し、1988年には総合ゴルフコンサルタント会社「ニシダゴルフコミュニケーションズ」を設立[17]。
主な著書
編集- 「初めてのゴルフレッスン: ビギナーズ・ガイド 基本スイングからコース攻略法まで」大泉書店、1988年4月1日、ISBN 4278046626。
脚注
編集- ^ a b 大学ゴルフ界から新星続々 “学士プロ”のルーツをたどる
- ^ a b 出身プロ一覧 | 日本大学ゴルフ部
- ^ 日本大学ゴルフ部OB会 | プロ名簿
- ^ a b Untitled
- ^ a b 西田升平氏が死去、日大ゴルフ部で第1期黄金時代築く - サンスポ
- ^ JGA 日本ゴルフ協会 【2021年度(第74回)日本学生ゴルフ選手権競技】
- ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ JGA 日本ゴルフ協会
- ^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ McCormack, Mark H. (1973). The World of Professional Golf 1973. Collins. pp. 313, 531–532. ISBN 0002119463
- ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ 佐藤朗「着陸の日まで ―尾崎将司とその時代」幻冬舎、2019年7月25日、ISBN 4344923766、p138。
- ^ 毎日新聞縮刷版p601 昭和50年1月25日朝刊15面
- ^ 朝日新聞縮刷版p709 昭和50年1月26日朝刊15面「鷹巣がリード クイリマ・ゴルフ第2日」
- ^ 毎日新聞縮刷版p648 昭和50年1月27日朝刊14面「村上、トップに立つ クイリマゴルフ第3日」
- ^ a b 西田プロ来場 | 鹿島の杜スタッフブログ