西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日[1] - 1955年2月18日[2])は、日本実業家技術者。元古河電気工業社長。元東京大学生産技術研究所協議会会長。

人物・経歴

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兵庫県出身[3]。西村純一の長男[3]。1914年東京帝国大学工科大学卒業[4]。「古河日光精銅所に於ける精銅並びに加工」により1937年に日本鉱業会学会賞(渡辺賞)を受賞[5]古河電気工業日光精錬所所長を経て[6]、1946年から古河電気工業社長を務め[7]、サッカー部(のちのジェフユナイテッド市原・千葉)を創設[8]。1948年兵器処理委員会に関する問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[9]。 1949年に東京大学生産技術研究所協議会が発足すると評議員に就任。1952年から東京大学生産技術研究所協議会会長を務め、同年生産技術研究奨励会を設立し、同理事長就任[10]

脚注

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  1. ^ 『人事興信録 第17版 下』人事興信所、1953年、に27頁。
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、942頁。
  3. ^ a b 人事興信所 1948, 二13頁.
  4. ^ 西村啓造「Design on Cyanidation of the Sado-Mine(佐渡鉱山青化収金法計画)」東京帝国大学工科大学、卒業論文、1914年。 
  5. ^ 学会賞(渡辺賞)受賞記録一般社団法人資源・素材学会
  6. ^ 界追放と経営者の選抜早稲田大学
  7. ^ 古河電気工業(株)『創業100年史』(1991.09)渋沢社史データベース
  8. ^ ジェフユナイテッド市原・千葉と古河電工古河電工
  9. ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第3号 昭和23年2月9日
  10. ^ IIS NEWS / 西村啓造氏逝去」『生産研究』第7巻第3号、東京大学生産技術研究所、1955年3月1日、72-77頁。 

参考文献

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先代
中川末吉
古河電気工業社長
1946年 - 1955年
次代
小泉幸久