西尾正義
西尾 正義(にしお まさよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄3年(1563年) |
死没 | 寛永3年2月23日(1626年3月21日) |
改名 | 伊兵衛 |
戒名 | 道空 |
墓所 | 東京都墨田区の要津寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀次、徳川家康、秀忠 |
氏族 | 深尾氏、西尾氏 |
父母 | 父:深尾正広 |
妻 | 村井氏 |
子 | 正保 |
略歴
編集深尾正広の子。深尾氏は近江源氏佐々木氏の傍流で、父・正広も六角義賢に仕えた。
当初は豊臣秀次の家臣だったが、文禄4年(1595年)に秀次が自殺すると、翌慶長元年(1596年)には徳川家康に召し抱えられ、その際に姓を西尾氏と改めた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には山岡景友に従って伊勢国長島城に籠城した。景友は小早川秀秋への内通を指示したため、近江国高宮で秀秋と接見してその確約を得、秀秋の使者を伴って美濃国赤坂の東軍先鋒や、本隊の家康へと報告している。また本戦間近にも秀秋の陣へと使者に出向いた。戦後は近江八幡の本陣を設営するために活動し、先鋒の狼藉を戒めている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣には嗣子・正保と共にいずれも従軍した。