藤越
株式会社藤越(ふじこし)は、福島県浜通りを中心にスーパーマーケットチェーン「フジコシ」を展開していた企業である[6]。 また、藤越本体で9店舗、関連会社のサザンクロス4店舗と藤越レストラン1店舗の合計15店舗のパチンコ店を経営し、1996年(平成8年)2月期にはグループの売上高約743億円のうち約240億円・約32.3%を占める第2の柱になっていた[7]。
ヨークベニマル本社内にあった藤越本社 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 | 福島県いわき市平字田町9[1][2] |
設立 | 1949年(昭和24年)4月7日[3] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | スーパーマーケット・パチンコ店経営[4] |
代表者 | 代表取締役社長 平本研二 |
資本金 |
8000万円[2][4] ↓ 約3億4000万円[広報 1] |
売上高 |
約565億円(1996年(平成8年)2月期)[4] ↓ 約156億3600万円(2007年(平成19年)2月期)[広報 1] |
従業員数 |
約1,500名[2](グループ全体約2,250名[2]) ↓ 238名(2007年(平成19年)2月)[広報 1] |
決算期 | 2月[5] |
主要子会社 |
藤越不動産株式会社[広報 1] 藤越商事株式会社[広報 1] 藤越メンテナンス株式会社[広報 1] 有限会社フジコシドラッグストア[広報 1] |
外部リンク | 公式サイト(閉鎖) |
特記事項:2001年、民事再生法適用。2010年、ヨークベニマルに吸収合併。 |
かつてはオール日本スーパーマーケット協会に加盟していた[8]。
2007年(平成19年)11月1日に小売事業を分社化した新会社の全株式をヨークベニマルが取得して同社の完全子会社となった[9]。 展開していた一部店舗はヨークベニマルとして営業している。
歴史・概要
編集創業からスーパーマーケットへ
編集1940年(昭和15年)に磐城郡好間村で文具化粧品の小売業を創業したのが始まりである[1]。
1949年(昭和24年)4月7日に江島虎四郎が平市に[3](後のいわき市平字田町[1])資本金100万円で「株式会社 丸江」を設立し[10]、同時に常磐炭鉱の指定店となって干物などの販売を手掛けた[3]。
仙台の藤崎や東京の三越を目指す意味を込めて[6]、1950年(昭和25年)1月に「株式会社 藤越」へ商号変更した[3]。
1960年(昭和35年)4月1日に[11]店舗を新築し[3]、同月28日に「株式会社 藤越スーパー」を設立して衣料品部門を分離し[1]、新店舗の1階と2階で衣料品スーパー部門の営業を担当させた[3]。
1961年(昭和36年)5月に不動産会社の「藤越不動産株式会社」を設立[4]。
1962年(昭和37年)10月に食品スーパーに業態転換した[3]。
1962年(昭和37年)10月15日に(初代)植田支店を開店し、1963年(昭和38年)4月20日に(初代)小名浜支店を開店した[12]。
1965年(昭和40年)9月に関連会社「藤越商事株式会社」を設立[13]。
1967年(昭和42年)6月20日に[14]小名浜第2店[1](後の小名浜店[14])を開店し、1968年(昭和43年)5月25日に亀戸店を開店して[15]東京に進出した[1]。
福島県浜通りを中心にスーパーマーケットを積極的に出店すると共に、マニュアル化などの近代化・合理化を進めて事業拡大を進めた[6]。
関連会社の設立と事業の多角化
編集1972年(昭和47年)11月にゴルフ場運営の「藤越開発株式会社」を設立したのを皮切りに関連会社の設立を進めた[4]。
1981年(昭和56年)4月に男子服小売の「有限会社ベルエイト」を設立し[4]、同年に「スポーツプラザ・イーブン」を開設し[16]、同年に同社のミスタードーナツ第1号店を開店した[16]。
1982年(昭和57年)3月にパチンコ店運営の「有限会社サザンクロス」と[4]パチンコ店・ゴルフ練習場運営の「有限会社タスマニア」を設立した[13]。
1983年(昭和58年)3月にレストラン運営の「株式会社フジインターナショナル」を設立し[4]、同年に同社の小僧寿し第1号店を開店し[16]、同年に平駅(現・いわき駅)前に「藤越レストランビル」を開設した[16]。
1984年(昭和59年)2月にレストラン運営の「藤越レストラン株式会社」を設立し[4]、同年11月に[4]自動車販売の「株式会社オートラマ藤越」を設立した[16]。
1985年(昭和60年)4月にビルメンテナンスの「藤越メンテナンス株式会社」を設立し[13]、同年には千葉県市原市に「キングフィールズ・ゴルフクラブ」を開設した[16]。
1986年(昭和61年)に「株式会社 江島」を設立し、同年に東京・銀座にカニ料理店の「江島」を開店した[16]。
1991年(平成3年)7月に周富徳を総料理長に迎えて東京・赤坂に中華料理店の「広東名菜・璃宮」を開店し、同年11月にイギリス・ロンドンにフランス料理店の「レ・サブール」を開店した[16]。
1992年(平成4年)4月に食料品・衣料品販売の「有限会社ベル・モード」を設立した[13]。
このようにオイルショックでの業績悪化を乗り越えた後は、バブル経済に乗って積極的な事業多角化を図った[17]。
しかし、バブル崩壊の影響もあり、レストラン13店舗で売上高約25億円を上げていた「株式会社フジインターナショナル」は、銀座のカニ料理店の「江島」と赤坂の中華料理店の「広東名菜・璃宮」の東京地区2店舗を残して他の店舗を閉鎖し、多額の累積損失を抱え込むことになった[16]。
ピーク時には1億4500万円まで高騰した「キングフィールズ・ゴルフクラブ」の会員権相場が1997年(平成9年)1月14日には2050万円まで下落し、第3次募集の7000万円はおろか第1次募集の2500万円すら割り込んだことから、預託金の返還を迫られる状況に陥った[16]。
日常的な低価格への取り組みと大手流通との競合
編集特売ではなく、米国式の低コストな店舗スタイルであるスーパーセンターをいち早く導入し、日常的な低価格(エブリデー・ロー・プライス)の実現を図った[18]。
ところが、1995年(平成7年)9月に「いわきサティ」が開店したのを皮切りに、同年10月には「ダイエー」を核店舗とした「鹿島ショッピングセンター」、1996年(平成8年)3月には「長崎屋」の「ラパークいわき」と、大手スーパー上位10社のうち3社がわずか半年の間に大型店を開店させ、いわき市の地元商店街の衰退が一段と加速する状況となった[19]。
この大型店の急速な出店は大型店同士の過当競争を生み、「長崎屋」の駐車場の一角に出店していた生鮮食品の「ダイナマート」が開店からわずか半年ほどの1996年(平成8年)秋に閉店し、「ダイエー」も開店から1年弱の同年夏に改装して地域に合わせた品揃えへ転換するなど、新規出店した流通大手も苦戦するほどのものであった[20]。
当社は、いわき市に当時16店舗を構える地区トップの販売力・仕入れ量から、地元でのプライスリーダーとして大手流通に対しても優位にあると自信を持っていた[18]。 その為、「いわきサティ」に対抗するために1996年(平成8年)12月に「スーパーセンター大原店」を出店したほか、「ダイエー」の出店により競合が予想された「藤越ショッピングセンター」にA館とC館を新設して増床するなど、大手流通の進出に対して積極策で正面から対抗した[20]。
しかし、ダイエーなど大手流通との資本力の差は圧倒的で[18]、逆に地場資本のスーパーの中では低価格路線の当社だけが唯一競合に巻き込まれたかのような状態となった[20]。 その結果、平店新館は29億3000万円から25億2800万円へ、藤越ショッピングセンターA館は57億7900万円から50億9500万円へ、高坂店は22億2100万円から19億1200万円へ、湯本店は14億2400万円から12億7400万円と、主な既存店は1995年(平成7年)2月期と1996年(平成8年)2月期を比較すると軒並み10%以上売上が落ち込むことになった[18]。
業績悪化と経営再建への取り組み
編集こうした競争激化とバブル崩壊後の多角化事業の業績低迷が重なり、1996年(平成8年)2月期に当社は約12億円の損失を計上して赤字に転落することになった[5]。 また、関連会社の藤越開発は約37億円、藤越不動産は約3億5500万円の損失を計上するなど、グループの業績悪化も同時に進んだ[13]。
1995年(平成7年)12月の「スーパーセンター大河原店」(投資額約14億円)と1996年(平成8年)12月の「スーパーセンター大原店」(投資額約30億円)の2つの新店舗の開設に伴う新たな借入約40億円も加わったことから、当社の有利子負債は約300億円となり、有利子負債比率は約74%に達すると共に、自己資本比率はわずか3.8%と極めて低い水準となってしまった[13]。
その為、1996年(平成8年)4月にメインバンクとなっていた東邦銀行が、東邦カード元社長を副社長として送り込んだほか、財務部長と経営企画室課長の計3名を派遣して、経営再建策の策定に乗り出す事態となった[13]。
そして、ワンマン社長と云われ、チェーン展開や多角化を進めた江島一雄は、同年12月30日付で社長を退任して会長へ退き、長男の江島晧二が社長に就任することになった[17]。
さらに、藤越本体で9店舗、関連会社のサザンクロス4店舗と藤越レストラン1店舗の合計15店舗のパチンコ店を経営し、1996年(平成8年)2月期にはグループの売上高約743億円のうち約240億円・約32.3%を占める第2の柱になっていたが、パチンコ店も大型店の出店が増えて競争激化が進んでおり、収益を支える力が落ち始めていた[7]。
そこに、藤越開発のゴルフ場の預託金返還がその後に発生することが見込まれていたことから、経営再建は待ったなしの状況となっていた[7]。
ところが、1997年(平成9年)2月期が売上高約512億6200万円・当期損失約15億円、1998年(平成10年)2月期が売上高約460億円・当期損失約20億円、1999年(平成11年)2月期が売上高約440億円・当期損失約10億円とその後も売上の減少と当期損失が続いてしまった[21]。 その為、当社は債務超過に陥ることになった[22]。
1999年(平成11年)3月1日付で江島晧二が社長を退任して会長へ退き、中合前社長の遠藤孝が同社を再建した手腕を買われて東邦銀行の後押しで社長に就任した[23]。
2001年(平成13年)1月29日に東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請して、事実上倒産した[24]。
丸和運輸機関の支援を受けてスーパーの営業を続けたが、2007年(平成19年)11月1日に小売事業を分社化した新会社の全株式をヨークベニマルが取得して同社の完全子会社とされることになった[9]。
沿革
編集- 1949年(昭和24年)4月7日[3] - 江島虎四郎が平市に[3](後のいわき市平字田町[1])資本金100万円で「株式会社 丸江」を設立[10]。
- 1955年(昭和30年)11月 - 食品主体のスーパーマーケットに転進。
- 1961年(昭和36年)5月 - 不動産会社の「藤越不動産株式会社」を設立[4]。
- 1965年(昭和40年)9月 - 関連会社「藤越商事株式会社」を設立[13]。
- 1972年(昭和47年)11月 - ゴルフ場運営の「藤越開発株式会社」を設立[4]。
- 1981年(昭和56年)4月 - 男子服小売の「有限会社ベルエイト」を設立[4]。
- 1983年(昭和58年)3月 - レストラン運営の「株式会社フジインターナショナル」を設立[4]。
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)4月 - ビルメンテナンスの「藤越メンテナンス株式会社」を設立[13]。
- 1986年(昭和61年) - 「株式会社 江島」を設立し、同年に東京・銀座にカニ料理店の「かに料理・江島」を開店[16]。
- 1992年(平成4年)4月 - 食料品・衣料品販売の「有限会社ベル・モード」を設立[13]。
- 1991年(平成3年)
- 1993年(平成5年)3月 - 本社をいわき市平谷川瀬に新築。
- 2001年(平成13年)1月29日 - 東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請し、事実上倒産[24]。
- 2004年(平成16年)8月6日 - マツモトキヨシと業務提携[広報 2]。
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年) - 本社を郡山市のヨークベニマル本社内に移転。
- 2010年(平成22年)2月 - ヨークベニマルに吸収合併。
かつて存在した店舗
編集大型店はスーパーセンターとして展開していた。
ヨークベニマルとして営業中の店舗
編集店名は現在のもの。住所のうち都道府県はすべて福島県。
- 売場面積1,458m2[25]
- 1998年(平成10年)7月に食品部門を増設して新装開店した[22]。
- 旧ホームセンター藤越リビング、スーパーセンターリビング。
- ヨークベニマルとしては2009年(平成21年)9月18日開店。
ヨークベニマルが跡地に出店した店舗
編集- 敷地面積約52,800m2[27]、売場面積約2,600m2[27]
- 当社のスーパーセンター1号店跡地に出店した[27]。
- 建て替え後、ユニクロ・ABCマート・スタジオアリスからなる3棟も開店。この時点で施設名を「ヨークタウン谷川瀬」に改称した[広報 3]。
- 2022年3月1日に店名が谷川瀬店に戻された[広報 4]。
閉店した店舗
編集×は藤越時代の建物が解体された店舗。
福島県
編集いわき市
編集平
編集- 本館・延べ床面積約1,763m2[28]、売場面積1,410m2[11]、新館・延べ床面積約1,773m2[28]、売場面積1,715m2[14]
- 新館は1961年(昭和36年)6月に開店[14]。
- 食品を扱う新館と、衣料品を扱う本館の2棟で構成されていた[28]。
- 1990年(平成2年)に火災により一時閉店となったが、営業再開した[29]。
- 東武百貨店を核店舗として構想が始まって1978年(昭和53年)にいわき市主導に切り替わった「いわき駅前地区市街地再開発事業」の[30]対象地区の一角に出店していた[29]。
- 末期は本館の老朽化もあり、新館に売り場を統合。[要出典]
- 再開発のため周辺の建物と合わせて解体されて跡地はラトブになった。[要出典]
- ラトブにも入居予定だったが競合他社の地権者絡みの問題や藤越自体の経営悪化により断念。[要出典]
- 藤越レストランビル
- 1階に24時間営業チキン&ハンバーガー店の「サザンクロス」、2階がパブ&居酒屋の「源九郎」、3階にしゃぶしゃぶ&ステーキの「テキサス」が入居していた[31]。
- 平店から道路を挟んで向かい側に立地。[要出典]
- その後ハンバーガーショップはミスタードーナツに替わり、2階・3階のテナントも入れ替えが行われた。[要出典]
- 藤越が消滅後もテナントビルとして営業を継続しており、ミスタードーナツは2020年まで営業を続けていた。[要出典]
- 売場面積1,410m2[11]
- 店舗面積約1,375m2の衣食住を揃えて小型スーパーとして開業した[36]。
- 「藤越ショッピングセンター谷川瀬」として新装開店した際に食品売り場が残り[36]、スーパーマーケット棟となったが[37]、スーパーセンターとして新装開店した際に閉鎖された[37]。
- 以上の棟が新たに建てられ、「藤越ショッピングセンター谷川瀬」としてリニューアルオープン[39][40][41][42]。
- 1991年(平成3年)3月27日に[37]「フジコシ·スーパーセンター谷川瀬B館」として新装開店した[36]。
- 敷地面積71,736m2[37]、駐車台数約1,300台[37]
- A館(延べ床面積10,696m2[37]、売場面積6,119m2[37](直営売場面積3,233m2[37]))
- B館(延べ床面積4,438m2[37]、売場面積3,684m2[37])
- 第1期として店舗面積約1,375m2の衣食住を揃えて小型スーパーを開業した[36]。
- 第2期として衣料品と住関連品の売り場を移転させた新棟と「スポーツプラザ・イーブン」を増設し[36]、1981年(昭和56年)10月24日に「藤越ショッピングセンター」として[14]新装開業した[36]。
- 第3期として衣食住・雑貨の売り場から飲食店まで入居させた新棟・A館を新設すると共に[36]、既存の旧ショッピングセンター館を衣料品専門棟へ改装したB館からなる「スーパーセンター谷川瀬」として[36]、1991年(平成3年)3月27日に新装開店した[37]。この時点では旧スーパーマーケット棟は閉鎖された[37]。核店舗として出店した当社のスーパーセンターは、食品とノンフーズ商品をワンフロアで販売する売り場形態を導入していた[43]。
- 敷地内には独立棟として、先述の「スポーツプラザ・イーブン」の他に、自動車販売店「オートラマ」やレンタルビデオ店蔦屋書店、ロッテリアやミスタードーナツなどのファーストフード店、パチンコ店「オアシス」2店舗などが出店していた[37]。
- その後、1990年代に「スーパーセンター谷川瀬」に改称し、その際「Dストア」棟は衣料品売り場を配置した「B館」へと改称、更に敷地内へ直営の食料品・家電と専門店で構成された「A館」を新築した。これによって食料品館はしばらく空き店舗となったが、後に「C館」と改称して直営のホームセンターが開業した。更に、ロッテリアやTSUTAYAなどが入るテナント棟やユニクロ、ミスタードーナツも新築された。[要出典]
- その後、C館は解体の上跡地にトイザらスが開業し、B館は空き店舗を経て、近隣で営業していたデンコードーがMAXデンコードーと改称して移転した[要出典][注 1][注 2]。
- 以上のように専門店を多数導入した結果、A館のみが藤越直営となった。[要出典]
- ヨークベニマルへの吸収後もしばらくはこの状態で営業していたが、A館が老朽化のため2013年4月14日に一旦閉店[44]し、A館とテナント棟を解体。
- 跡地には、建て替えて、2014年(平成26年)4月25日に「ヨークベニマル新谷川瀬店」を開店した[27][広報 3]。
内郷
編集- 敷地面積約4,751m2[45]、鉄骨造地上2階一部3階建て[45]、延べ床面積約5,470m2[45]、店舗面積約4,175m2[45](当社店舗面積約694m2[45])、駐車台数約150台[45]。
- 亀宗(約1,940m2)と共に核店舗として内郷ショッピングセンターに出店していた[45]。
- 2000年にショッピングセンターの閉鎖に伴い撤退。跡地は住宅地として分譲。[要出典]
常磐湯本
編集- 売場面積1,942m2[14]
小名浜
編集- 敷地面積約5,864m2[50]、鉄骨鉄筋コンクリート造地上3階建て[50]、延べ床面積約13,247m2[50]、店舗面積約8,746m2[50](当社店舗面積約1,650m2[50])、駐車台数約260台[50]。
- 亀宗(約1,881m2)と共に核店舗として小名浜ショッピングセンターに出店していた[50]。
- (初代)小名浜店の隣接地に新築された[10]小名浜ショッピングセンターに入居していた[51]。
- 当初は当社が食品で、亀宗が衣料という紳士協定が結んでいたが、わずか半年後に当社が660m2の大衆衣料売場を新設して、亀宗などの衣料品系の出店者との間で揉めることになった[51]。
- 小名浜ショッピングセンターと小名浜名店街を共同店舗化する構想が1990年代半ばに浮上した[52]。
- 敷地面積約68,248m2[53]、鉄骨造り平屋建て・延べ床面積約15,871m2[53]、売場面積10,200m2[53](直営売場面積7,200m2[53])、駐車台数約1,200台[53]
- アメリカのウォルマートを参考に開発したスーパーセンターで、開業時点では21店舗のテナントが入居していた[53]。
- 1998年(平成10年)6月に改装して新装開店した[22]。
- ヨークベニマルへの吸収後に建物はそのままに内装と外壁の塗装が改装され、「ヨークタウンアクロスプラザ大原」として営業。ヨークベニマルを核テナントとして、ダイユーエイト・ツルハドラッグ・ダイソーなどのテナントと共に営業していたが、老朽化のため2023年5月14日に一旦閉店[広報 5]。解体後、建て替え工事を行い、2024年に再開業する予定[広報 5]。
その他
編集- 売場面積2,034m2[14]
- 植田駅前店×( - 2008年(平成20年)8月31日閉店)
- 閉店したイトーヨーカドーいわき植田店植田ショッピングセンターの後を継ぐ形で核テナントとして出店したが、間もなく藤越自体の経営が悪化した為、徐々にフロア面積を縮小、最終的に完全撤退する形となった。
- 翌2009年に解体され、跡地はミニストップいわき植田駅前店、カラオケ本舗まねきねこいわき植田店、はなの舞植田店となっている。[要出典]
浜通り(いわき市以外)
編集- 売場面積約1,165m2[56]
- 本館・売場面積約1,440m2[57]、新館・売場面積約1,700m2[57]
- 食品館・衣料館の2フロア構成だった。建物は2008年12月に解体され、跡地にはスーパーシシド相馬リボン店が開店。[要出典]
- 売場面積約735m2[56]
- 延べ床面積約2,383m2[58]、売場面積約1,496m2[58]
- 藤越時代の建物は解体され、新築の上ヨークベニマル浪江西店として2009年秋頃開店予定としていたが、2010年時点でも着工に至らず、間もなく東日本大震災によって福島第一原子力発電所事故が発生。警戒区域に設定されたため一時立ち入り禁止となった。[要出典]
- その後、2013年4月1日に警戒区域の再編に伴って立ち入り可能となったが、それから10年経過した2023年現在もなお更地のままとなっている。[要出典]
- 鹿島店(南相馬市鹿島区西町2丁目3-1)
福島県以外
編集かつて存在した事業所
編集- 1981年(昭和56年)開設[16]
- 「藤越ショッピングセンター・谷川瀬」の一角に出店していた[67]。
- 25m・6コースの温水プールや1周80mの人工芝のジョギングコース、アスレチックジム、屋上テニスコート・ラケットボールコートなどがあった[31]。
- 名設計者と云われた小林光昭が設計し[69]、開場時からヘリポートを併設してヘリコプターで来場できるようになっており[70]、法人接待用に造られた名門ゴルフコースとされていた[16]。
- アーバネットシニアカップの会場にもなった[71]。
- 平中央給油所[68]
- 藤越商事経営のガソリンスタンド[68]。
- 神谷給油所[68]
- 藤越商事経営のガソリンスタンド[68]。スーパー出店予定地の一部だった。
- フランス料理店[16]。
かつて存在した関連会社
編集- 有限会社フジコシドラッグストア
- 有限会社サザンクロス
- パチンコ店経営[2]。
- レストラン運営[4]。
- 小僧寿し(内郷店・岡小名店・高坂店・谷川瀬店・錦店・船戸店・湯本店・好間店)、ミスタードーナツ(平駅前店・谷川瀬店・水戸駅前店)、百珍亭(市ヶ谷店・日本ビル店・日本橋店・室町店)、源九郎平駅前店、サザンクロス平駅前店、テキサス平駅前店などを運営していた[68]。
- 売上高約34億9700万円(1996年(平成8年)2月期)[4]
- パチンコ店・ゴルフ練習場運営[13]。
- 食料品・衣料品販売[13]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 旧店舗の跡地にはハードオフ・オフハウスが開業[要出典]。
- ^ その後、デンコードーはケーズホールディングスへ買収されたため、ケーズデンキへと改称している[要出典]。
出典
編集- ^ a b c d e f g 『全国繊維企業要覧 昭和45年版』 信用交換所大阪本社、1969年9月15日。pp1850
- ^ a b c d e f g h i j 冨田耕二 “時代の変化に挑戦する地方大手スーパー (株)藤越”. 商工ジャーナル 1995年9月号 (商工中金経済研究所) (1995年9月).pp62
- ^ a b c d e f g h i 『全国繊維企業要覧 昭和43年版』 信用交換所大阪本社、1967年9月15日。pp1914
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao “崩壊の危機に瀕する「藤越王国」最大の悩み”. 財界ふくしま1997年2月号 (財界21) (1997年2月).pp113
- ^ a b “崩壊の危機に瀕する「藤越王国」最大の悩み”. 財界ふくしま1997年2月号 (財界21) (1997年2月).pp108
- ^ a b c “五十四年度下期の県内法人所得一覧 金融、農業関係が躍進”. 財界ふくしま1980年10月号 (財界21) (1980年10月).pp146
- ^ a b c “崩壊の危機に瀕する「藤越王国」最大の悩み”. 財界ふくしま1997年2月号 (財界21) (1997年2月).pp118
- ^ “AJS(オール日本スーパーマーケット協会) 自立と競争を奨励する「北野流経営ソフト」の可能性と限界”. 激流 1998年8月号 (国際商業出版) (1998年8月).pp28-32
- ^ a b c 川崎博之(2007年8月3日). “ヨークベニマル、いわき市のSM「藤越」支援で業務・資本提携”. 日本食糧新聞 (日本食糧新聞社). pp1
- ^ a b c 『日本繊維商社銘鑑 1970年版』 東京信用交換所、1969年10月1日。pp1589
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広報資料・プレスリリースなど一次資料
編集- ^ a b c d e f g h セブン&アイホールディンクスによる提携についてのプレスリリース(2007年11月10日時点のアーカイブ)
- ^ a b “業務提携解消に関するお知らせ”. 株式会社マツモトキヨシホールデイングス (2008年1月31日). 2016年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月19日閲覧。
- ^ a b 「ヨークベニマル新谷川瀬店」開店のお知らせ (PDF)
- ^ 一部店舗の名称変更のお知らせ (PDF)
- ^ a b “「ヨークベニマル大原店」休業のお知らせ”. 2023年12月9日閲覧。