藤堂元福
藤堂 元福(とうどう もとふく)は、伊勢国津藩藤堂采女家第5代。伊賀国上野城代。2代藩主藤堂高次の玄孫。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元文5年(1740年) |
死没 | 天明元年8月26日(1781年10月13日) |
改名 | 峯五郎(幼名)→元福 |
別名 | 弾正→采女(通称) |
墓所 | 伊賀市の西蓮寺 |
主君 | 藤堂高朗 |
藩 | 伊勢国津藩 |
氏族 | 藤堂氏、保田氏 |
父母 | 父:藤堂良躬、母:八重(藤堂高稠の娘)、養父:元杜、元甫 |
妻 | 室:三千(多羅尾光豊の娘) |
子 | 元長、愛(多羅尾光雄室) |
家系
編集藤堂采女家は、藤堂高虎に仕え藤堂姓を与えられた藤堂元則に始まり、代々の当主が「采女」の通称を名乗る。本姓保田氏。家紋は追洲流、三文字。初代元則以降伊賀上野城代を世襲した。
略歴
編集元文5年(1740年)藤堂家家臣藤堂新七郎良躬の五男として生まれる。母は采女家3代高稠の娘八重。幼名は「峯五郎」。[1]
延享2年(1745年)8月28日、叔父の采女家4代元杜が死去。藩命で9月22日に采女家の家督を相続する。まだ幼いため祖父高稠の弟で分家当主の元甫が、藩より看抱を命じられ、代わって上野城代に就任した。[2]
宝暦7年(1757年)上野城代に就任し、代々の通称の「采女」と名乗る。宝暦13年(1763年)養父元甫が編纂した伊勢、伊賀、志摩3国の地誌「三国地志」のうち未完成だった「志摩国」を完成させた。
天明元年(1781年)8月26日、死去。享年42。家督は嫡男元長が相続した。
出典
編集参考文献
編集- 上野市古文献刊行会編「庁事類編 藤堂藩伊賀城代家老日誌」
- 久保文武著「伊賀史叢考」