藤堂 高稠(とうどう たかしげ)は、伊勢国津藩藤堂采女家第3代。伊賀国上野城代。2代藩主藤堂高次の外孫。

 
藤堂高稠
時代 江戸時代
生誕 寛文4年(1664年
死没 享保20年8月12日1735年9月28日
改名 熊鶴(幼名)→元春→元稠→高稠
別名 民部→采女(通称)、友翁(号)
墓所 伊賀市西蓮寺
主君 藤堂高久高睦→→高敏高治
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏保田氏
父母 父:藤堂元光、母:梅(藤堂高次の娘)
兄弟 高稠、久(藤堂良長室)、元甫
前室:藤堂信昌の娘、後室:平田大蔵の娘
元武、重祐、元杜
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家系

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藤堂采女家は、藤堂高虎に仕え藤堂姓を与えられた藤堂元則に始まり、代々の当主が「采女」の通称を名乗る。本姓保田氏。家紋は追洲流、三文字。初代元則以降伊賀上野城代を世襲した。

略歴

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寛文4年(1664年)藤堂家家臣藤堂元光の四男として伊勢津に生まれる。幼名は「熊鶴」。母の於梅は2代藩主高次の庶子で、於梅の生母は3代藩主高久の生母於振(多羅尾氏)の妹於多阿。[1]

貞享4年(1687年)に祖父元住が死去し、家督を相続して上野城代に就任した。享保16年(1731年)隠居して家督を嫡男の元社に譲るも、元社への上野城代職の世襲は許されず藤堂玄蕃良成が就任した。[2]

享保20年(1735年)8月12日、死去。享年72。

人物

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山本退庵(生没年不詳。藤村庸軒門下の茶人で、米川流香道にも通じていた)の茶道の弟子。

関連作品

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ドラマ

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出典

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  1. ^ 庁事類編
  2. ^ 久保

参考文献

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  • 上野市古文献刊行会編「庁事類編 藤堂藩伊賀城代家老日誌」
  • 久保文武著「伊賀史叢考」